面会交流の禁止を求める家事審判において、直接及び間接の面会交流(親子交流)を拒絶する子の意向(当時17歳)等に鑑みて、親権者の承諾を得ない直接及び間接の面会交流を禁止した事例。

 

第1 名古屋家決令和3年9月3日家法55号102頁

1 決定要旨

面会交流の禁止を求める家事審判において、直接及び間接の面会交流(親子交流)を拒絶する子の意向(当時17歳)等に鑑みて、親権者の承諾を得ない直接及び間接の面会交流を禁止した事例。

2 事案の概要

⑴ 父母は平成16年7月に別居し、母同席の下、月に2~3回親子交流をしていた。

⑵ 父母は平成20年に離婚したが、親子交流は上記(1)と変化はなかった。

⑶ 進学をめぐって息子と父が揉めて令和2年2月で親子交流は中止となった。

⑷ 父は令和2年5月に前件調停事件を起こしたところ、息子は、家庭裁判所調査官に対して「僕は、父子二人で会うことを希望しません」「僕が30歳になったらお父さんの気持ちも分かるのでこどもを連れて会いに行きます」「僕が会いたいと思う時が来たら僕の方から連絡します」「家や学校の近くでの待ち伏せは止めてほしい」と回答した。

⑸ 父は令和3年2月19日調停を取り下げたが、2月26日、要旨、「養育費を手渡しにします」との手紙を送付し、息子は「僕の気持ちは変わりません」とするメールを返信した。

⑹ 父は、令和3年3月7日から5月2日まで自宅に押し掛けるなどした。

⑺ 母は、令和3年4月30日、面会禁止の調停を申し立てた。

3 本件の要旨

⑴ 父は、母の承諾を得ることなく、息子と面会交流をしてはならない。

⑵ 母は、息子が父との面会交流を求めた場合はこれを許さなければならない。

4 解説

⑴ 田邊浩典名古屋家裁部総括判事時代の決定である。いわゆる「田邊コート」の面会交流についての判断の特色としては、「原則実施説」のようなドグマないしバイアスのかかった規範を振り回さず、多くの事実を認定して、検討としては規範を定立することもなく、「上記の事実(の程度)によれば」という形で、個別具体的に処理する民事裁判官のお手本のような決定である。地元に根差した判事はきちんとした処理をすることも感心する。

⑵ 本件では、田邊裁判官は、審問を開催していることがうかがわれるが、父の陳述においても息子を突き放すような言い方であったと民事裁判官らしく不利益な事実の採証に審問を利用している点は家事裁判官に余り見られない特徴である。この起案の限りでは、面会交流中止の責任は主として父にあったという心証になっていると思われる。

⑶ また、面会交流を巡る父母間の葛藤性のあるメールのやり取りをこどもが見てしまった場合については、感情的に「負の感情の固定化を招く」などと批判してくる裁判官も縷々いたところであるが、田邊コートでは、父の母に対する攻撃的なメールの文面を事実認定し、その後「こどもがのぞきこんでそのメールを読んだ」からこどもが不興の気持ちを強めるのは当たり前であろうということを察した心証のように思われる。

⑷ このため、令和2年9月28日、こどもの調査官に対する「僕は、父子二人で会う形については希望していません」「お母さんに嫌がらせをしないか心配です」と記載を認定している。

⑸ この事実認定で特筆されるのは「前件審判」における「家裁調査官の調査結果」も丁寧に認定していることや父の行動の懸念点をむしろ積極的に事実認定し、調査官報告書の「調査官の意見」の欄を使用するのではなく、裁判官の理由中の判断で、そのような懸念を持たれているし、メールを事実認定しているから杞憂ではないという判事の声が伝わってきそうな点が「田邊コート」の特色であるといえよう。

⑹ その後、父は前件調停を取下げ、養育費をこどもに手渡しという手法を通じて無理やり面会しようとした点も詳細に事実認定し、こどもは、「手紙とハガキを読みましたが僕の気持ちは分かりません。いつか僕から連絡するまでそっとしておいて下さい」とするメールを出され、父の自力救済行為を単に事実として(価値中立的に)認定し、面会交流のルールも守りがたい父という心証を抱いていることをうかがわせている。

⑺ 以上のような詳細な事実認定の下では、「思うに面会交流は子の人格形成に非常に資するものであるから子の福祉を害する特段の事情がない限り、原則実施すべきところ」というドグマを持ち出す必要なく、アドホックな比較衡量に持ち込んで処理している点は老練な民事裁判官のなせる技といえよう。

⑻ そのうえで、「検討」欄では、田邊コートでは、こどもの意向を中心に判断している。

⑼ 本件では裁判官の心証を害した実力行使部分についても言及があり「養育費の支払名目で未成年者と会うことを強いるような父の行動は未成年者を精神的に不安定にさせるものであり子の福祉に反するものであることは明らかである」とした。

もっとも、18歳以降は「成人」であるし、当然に「高等教育費」について援助する義務が父にあるわけではなく「扶養料請求」になる可能性もあるから、父子での討議可能性は残しておいた方が良いと考えるものもいるように思われる。

この点、田邊コートは、①母親に対して常識外れとのメールを送付する人であること、②養育費と面会交流を結びつけた実力行使、③父が養育費減額調停を提起したことを否定的心証の基礎としてとりあげていることを踏まえると、ふたたび、こどもに対して父と話し合うべきであるとして面会を求める可能性が否定できない。また、進路をめぐって父から面会を働きかける危険があるから、進学が迫っていても、個別具体的事情に照らして「禁止」の利益の方が上回ると判断している点がポイントである。

⑽ 近時家事審判では、私見では若手裁判官や刑事裁判官出身者が「抽象化」した規範を振り回していることが懸念されるように見られないところもない感想を抱かざるを得ない。

特に面会交流の場合、そもそも裁判所自体が不偏不党といえるのか、特定のドグマティークを信奉しているのではないか、というところから疑問を当事者から持たれている現状がある。加えて、家庭裁判所調査官に調査を全て任せてしまい、裁判官としての「完全性」が揺らいでいる者も見受けられないこともないが、本来は、こうした裁判官が自ら思考し自ら起案した当たり前の決定が理想といえるところであり、本件の事実認定を見ていると、本件では、年齢が17歳であったことそれ自体はそれ程重視されていない感想を抱く。

⑾ その証拠に、田邊コートでは高齢のこどもにのみこのような判断をしていたのではなく、一例を挙げれば3歳のこどもにつき、名古屋家決令和3年2月19日でも、結論は父子の直接交流を否定し間接交流のみ肯定した。ここでも、田邊コートは幅広く事実認定したうえで、あくまで定立した規範は「面会交流が子の生活関係や監護親の監護養育、子自身の心身の状況等に照らして子の福祉に反すると認められる場合には面会交流が制限されることもやむを得ない」という中立的なものに留めている。

そのうえで、上記3歳のこどものケースでは、認定したそれなりの事実を持ち出してきて、さらっとこどもの精神状態が悪化ないし不安定となるおそれが高いと括り結論としている。

⑿ 比較衡量を語るうえでは、事実認定に加え、丁寧なバランシングが望まれると考えられる一例といえる。このようなケースバイケースのお手本のような処理が広がってほしい。

なお、面会交流原則実施説については、以下のように考えることができる。

(ア) 平成24年、東京家裁判事細矢郁(退官)により面会交流原則実施説という事実上の解釈立法がなされるに至った(細矢郁ほか「面会交流が争点となる調停事件の実情及び審理の在り方~民法766条の改正を踏まえて」家月64巻7号1頁、以下「原則実施説」という。)。この中では、「こどもの拒絶」は、面会を嫌う同居親の影響である、「本当は会いたいはずだ」とこどもの意思は塗り替えられて無視されるようになった。このような歴史的経緯がある。

(イ) しかしながら、ACEs(小児期逆境性障害)が広く周知されるようになり(親の仲が悪い家庭で育ったこどもは重大な疾病に罹患しやすいなどの研究成果がアメリカで明らかにされた。詳細は、「ACEsサバイバー」という新書に詳しい。)、こどもに対する深刻な健康上のリスクがあると周知されるようになったほか、児童精神科医を中心に細矢の原則実施説は激しい批判を浴びることとなった。

加えて、細矢郁の原則実施説の立論に関わる心理学的知見は科学的根拠に乏しいと批判され(渡辺義弘『高葛藤紛争における子の監護権』74頁(2017年、弘前大学出版会)、私見が改めて読み直したところ心理学的統計の誤謬やデータのサンプル不足も見られ原則実施論自体成り立っていないものと言わざるを得ない。このような不当な原則実施説の下例外の過酷な絞込みが行われる結果に終わったのが平成末期なのである(前掲渡辺75頁)。

平成末期では、苛烈なDVが行われたDV被害者の女性に、女性裁判官が面会交流をさせるように恫喝した事例などに接したことがあり、筆者が高裁で決定自体を覆した経験もあるくらい、「面会交流教条主義」の下、結果的にこどもの利益が犠牲になっていた。細矢郁の論文はその元凶といえる。

(ウ) 細矢郁の原則実施説の下、面会交流に際しては、家庭裁判所は監護親(主には母)の敵なのではないかという論調が社会に広がることとなった。結果、「科学的調査」を謳う家庭裁判所調査官も、結論ありきで調査を進めていくことが家裁調査官の教科書である家裁調査官研究紀要で次第に明らかになった。

他方、細矢郁の面会交流原則実施説により、その一方で父からの間接強制や損害賠償請求を勢いづかせる結果となり、監護親を追い詰め間接強制の結果、ますますこどもの貧困が進むという主客転倒の事態に陥ったのである。中には、間接強制制度につき、母に不当な罰金を科し搾取しているとして民事裁判制度に対して否定的な意見を持つこどもも散見されたところである。

(エ) そこで、細矢郁は第二論文(「東京家庭裁判所における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデルについて」家法26号129頁)を公表し過ちを糊塗しようとした。細矢は、これ以外にも図書館などでは入手できない本などで弁明めいた論文をいくつか執筆しているが、「弁明めいている」という嘘臭さを払拭することはできなかった。

(オ) しかも、細矢の第二論文(いわゆるニュートラル・フラットモデル)は分析すると、法学的な論述に続き6分類といった心理学的な話に論述をすり替え、その6分類や検討プロセスをたどると結果的に全て面会交流を原則実施するというように収束するように設計されており、正しく詭弁構造と言わざるを得ない内容となっている。これに正しく気付いている法律家は少ない。

(カ) 円環的なプロセスは、一見柔軟に見えるものの、最終的に全て面会交流原則実施に誘導される構造となっている。したがって、既に、予断に満ちた結論ありきのモデルと言わざるを得ず、細矢郁は結局何も反省していなかったのだ、となるであろう。

こどもの意思の軽視は、「子の言動の背景事情を総合的に考慮した上で慎重に判断する必要と解され、子が非監護親との面会交流を拒絶している場合であってもそれが真意からの拒絶とは評価さ(れない)」との言質が独り歩きし、家裁は中立で公正に対する期待を裏切る結果となった(細矢の第一論文81頁)。

細矢の第二論文が「ニュートラルフラット・モデル」などと名付けたことは、裁判所が「ニュートラルではなく(肩入れ)」ではなく「フラットでもなかった(偏見があった)」ことの裏返しで英語でいえば格好よくなるものではない。裁判所の不偏不党を細矢郁が破壊したといっても過言ではないことが名称に象徴されている。

(キ) 日弁連委員会の書籍においても、「細矢第二論文でも、・・・原則実施論に変更はないと筆者は思う」と解説されているが同感である(長谷川京子「Ⅱ離婚後の親権・監護と子の養育」37頁、日本弁護士連合会両性の平等に関する委員会編『ジェンダー平等の実現と司法』(日本加除出版、2023年))。

ニュートラル・フラットモデルに関しては、法学論と心理学論を接続させ、円環状のトリックにより、好意的な評価をする論者もいる(一例を挙げると、細矢第一論文に批判の限りを尽くしていた梶村太一『第二版裁判例からみた面会交流調停・審判の実務』380頁(日本加除出版、2020年)や武藤裕一の『留意点』などがあるがいずれも疑問である。)。

(ク) もっとも、今後は、田邊コートでみられた個別処理のお手本を広げていくしかないほか、家裁調査官がこどもを客体にして30分程度話しを聴いている実態を改め、継続的な調査を数回行いより真意に近づく努力をするべきである。

面会交流のテンポ感は「やって良かった」と思えることであり、また、こどもの心理状態や健康状態を中心に無理のない範囲を設定し、そこから、父母間で協議するというアプローチ(オランダではこのようなアプローチと聴く)の方が妥当であるように思われる。

いずれにしても、調査官研究紀要22号は「調査官自身が調査を言語化できていない」「経験を活かして仮説を作る」「主観性の高い事実を扱う」などというが、調査官自体が言語化できないとか、仮説を立てて想像で主観性の高い物事を語られても困る。

そもそも、家裁調査官は、人間科学の専門家ではない。その方向性の大学にも通っていない者がほとんどであり、博士号はもちろんその方向性での学士も持っていないのである。そして、国家資格のオーソライズがない。例えば、児童相談所では、医師、保健師、看護師、精神保健福祉士、社会福祉士などの国家資格者が複数人携わり、こどもへの面談や訪問回数も6回近いという。

調査官は、仮説を作成し偏見を抱いて調査を始める手法自体が誤りであり、こうした科学調査機構の補助職の姿勢の誤りが暗黒の「原則実施説」の時代であったといえるであろう(特に追跡調査や統計的データを収集せず、アメリカの論文のパクリばかりが家裁調査官というしかない。今後は翻訳は容易であり質的にデータ収集や予後の検証が求められる。(最終的には家裁による処理は難しく面会交流は行政に移管するテーマなのかもしれない。こども家庭庁と家裁では予算が違い過ぎる。)

わたしたち弁護士は、そうした誰が見ても苛烈なDV事件の面会交流の原則実施説をプラクティスで覆してきた。それだけに細矢郁は非常に罪深い。他方、細矢郁の原則実施論が独り歩きをし続けたのは、外在的に批判する論者や原則実施説が「要件事実論化」を招いており総合較量が妥当だ、という、判断枠組み論など噛み合った批判にならなかったことが学説としても不幸であったとういうべきように思われる。

しかも、弁護士の側でも研究を深め、原則実施説とニュートラルフラット・モデルの完全論破を目指すべきではないか。

面会交流は、究極的にはこどもの利益のために行われるべきものであり、抽象的な心理学を持ち出して原則実施論の根拠に据えることなどできない。細矢郁は、この後に及んで、第一論文は誤解された、被害者ぶっているが、第二論文も、「面会交流を実施することが子の利益に資する場合」ではなく、「面会交流を実施することにより子の利益に反する事情があるといえない場合」に面会交流の調整に進むとあり、これは従来の「面会交流を実施することにより子の利益を害する事情があるといえない場合」と大して思考方法が変わらず、所詮、原則実施説の亡霊に過ぎない。

したがって、「ニュートラル」といいながら提示する規範が、「反しない限り認めるべき」という立場であり既に偏っているのであって、何もフラットではない。細矢郁の退官を一つの契機に、根本的な原則論、そしてそれを糊塗しようと試みたニュートラルフラット・モデルはいずれも解釈論として論破されるべきように思われる。

依頼者様の想いを受け止め、
全力で取り組み、
問題解決へ導きます。

の離婚弁護士

初回60
無料相談受付中

052-756-3955 受付時間 月曜~土曜 9:00~18:00

メールでのお申込み

  • 初回相談無料
  • LINE問い合わせ可能
  • 夜間・土曜対応
  • アフターケアサービス

離婚問題の解決の最後の最後まで、どんなご不安・ご不満も名古屋駅ヒラソルの離婚弁護士にお任せください。