民法改正~新しい「親子交流制度(面会交流制度)」をめぐって(令和6年改正)~
民法改正~新しい「親子交流制度(面会交流制度)」をめぐって(令和6年改正)~
離婚後共同親権を可能にする民法改正法が、令和6年5月17日に成立し、24日に公布されました。様々な改正がされた民法改正ですが、おおむね令和8年4月から施行されるのではないかと予想されている割には情報が余りありません。
これに関連して、面会交流制度について条文が整備され直しておりますし、非監護親以外の祖父母にも面会交流権が認められるようになりました。そこで、面会交流に詳しい弁護士がいま分かる情報を令和6年7月末日時点で整理しておきます。その後の通達などはこの記事ではフォローしておりません。
改正民法というと、離婚後選択的共同親権が取り上げられますが、様々な改正がなされていますので、面会交流で書籍も出版している弁護士が解説します。
なお、この記述はいささか学術的論文性を帯び、ないし理論的なものであり、多くの面会交流問題に関心がある方々に向けて情報発信をする観点に立つものであり、必ずしも事務所の見解ではなく、筆者の個人的見解でもないことをお断りしておきます。
この記事は既に実定化が決まった法令の解釈論を試みるものであり、特定の政治論や価値観には与しないこと、今後、民法学者や立法担当官の解説が発表された折、リファインされ得るものであることをお断りしておきたい。いちジュリス・ドクターの感想というべきものというお断りはしておきます。
以上を前提として、パリオリンピック閉会の報に触れ、フランスに想いを寄せ、これを記す。(2024年8月12日配信)
1.別居後面会交流のルール
令和6年改正では、面会交流の設定の取り決めの促進や履行確保の方策が論点となっています。したがって、面会交流を原則実施しなければならないという「原則実施説」であるとか、令和元年はこれを改めたニュートラル・フラットモデルについての議論は運用の問題として引き続きなされていくものと考えられています。
この点について立法政策による民法の法改正は概ねありません。
現在は、①連れ去りの恐れ、②DV、③児童虐待、④子の拒絶がない限り面会交流を認めるという原則実施説は退潮し、こどもの安全や父母間の葛藤も考慮するニュートラル・フラットモデルに改められています(細矢郁「東京家裁における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデルについて」家法26号129頁)。
もっとも、上記の面会交流拒否制限事由は、名古屋高裁などでは、上記細矢を知らない裁判官を中心に跋扈し続けているため、一定の留意が必要であることは今後とも変わりません。
今後、ポイントになるのは、こどもの意向・安全・安心というものを中核に決められていくということではないか、と考えます。
また、近時、学会で発表された演題では、面会交流をしているこどもの方がしていないこどもよりも、心理的安定性が優れているといった「裁判所にとって望ましい結果」が臨床学・統計学的に得られていない実態が明らかになり、かえって面会交流自体がこどもの負担になっているのではないかという可能性も示唆されていました。
これらは、面会交流自体がこどもの成長に有益と断定的に決めつける実務に反省を促す臨床的エビデンスということができ、現実に心理学者から疑問が呈されることは一応問題といえるのです。
もちろん、法哲学や宗教学の立場から、面会交流が望ましいと価値判断することは否定されません。
こどもが面会交流をすることで、離婚で傷ついた心が癒されるかというと、ほとんど誤差のような統計資料しか出て来なかったということは、あくまで心理学者の演題の範囲とはいえ、特定の政治的価値観による極端な思い込みは避けられるべきように思われます。
ニュートラル・フラットモデル(前掲細矢)もそのような思い込みはしないという志から、そのような名称が附されたものと考えられます。
加えて、面会交流は、子の利益を最も優先すべきことに争いはなく、こどもの権利条約などにも留意して解釈指針となされるべきように思われます。
その際、こどもには「手続参加権」という権利があることが条約上のコア部分としてあり、現在の高等裁判所がこどもを調査することが子の負担となるという言い訳が正面から条約上否定されていることにも今後とも留意が必要なように思われます。
2.面会交流(親子交流)の条文改正
民法に面会交流に関する条文は、ほとんどありませんでしたが、詳細な条文が設けられることになりました。
ただし、新設された民法817条の13は、ほとんどがこれまでの家裁実務上の取扱いということもでき、目新しい点としては、父母以外の親族たる祖父母も面会があり得ることなどが挙げられます。この点、子の兄弟姉妹も面会交流ができるとされましたが、手続行為能力の問題から事実上問題になるのは祖父母のみといえるでしょう。
- 子と別居する父又は母その他の親族と子との交流について必要な事項について、父母の協議で定めます。
- 協議が調わないときは、父又は母の請求により家裁が定めます。
- 家裁はいったん定めた内容の変更ができます。
- 父母以外の親族については、家裁が「特に必要」と認めた場合に限定されています。
- 家裁は面会交流について必要な事項を定めます。
- 変更する審判についての申立ては父母以外の親族もできます(ただし、直系尊属、兄弟姉妹以外は過去に監護していた者に限ります)。
さらに、民法766条の2も新設されました。
- 家裁が子の利益のため「特に必要がある」と認めるときは、父母以外の親族が面会交流することが可能となりました。このように「特別な必要性」要件があります。
- 審判の請求権者は以下のとおりです。
・父母
・父母以外の子の親族としては、子の直系尊属及び兄弟姉妹以外の者は、過去に監護していた者
このように、「特に必要がある」という法律要件があるため、ハードルは一定程度あるものの、最高裁判所の判例で明確に否定された祖父母の面会交流が立法政策で認められるようになりました。
もっとも、「特に必要がある」という文言からすれば、民法は祖父母の面会に制限的であり、祖父母・こども、父・母という4者の利益を総合的に考慮して、子の利益を最も優先的に考慮し、特別に祖父母の利益が上回るケースというべきように思われます。この点は条文の構造のほか、後ほど武藤説について考察を加えています。
祖父母には、現在の父親が典型的な非監護親のような頻繁な面会交流は認められないと思われます。
祖父母の面会交流が認められて良かったという方もいるでしょうが、多くは、非監護親側の祖父母でしょうから、ますます監護親側との葛藤が激化する要素を含んだり戦前の家制度の感覚を持ち込まれたりして監護親が疲弊する場面も想定されるでしょう。現実に、ワシントン州最高裁に持ち込まれたケースもそのようなものでした。
特に「家」同士の対立となり更に紛争が激化する可能性も孕むとは一応いえるでしょう。
この点はこれまで監護補助者として実働があったかなどが総合的に較量される可能性もあるでしょう。
とりわけ祖父母は養育費を負担しているわけでもなく、父母でもありません。
しかも、改正法前では最高裁から面会交流権はなしとの決定が確定しています。
そもそもどのような法益が祖父母にあるのかという出発点から解釈問題としては難しいものがあるように思われます。
この点、アウシュビッツの生き残りであり、皇后陛下の妹君が翻訳され小和田判事と同輩であったトム・バーゲンソール国際司法裁判所判事は、「ラッキー・ボーイ」という著書の中で孫にはこどもとは異なる特殊な感情が芽生えるのであると叙述されているが、果たして、それがどの程度法益として保護されるべきかが問題ともいえるでしょう。
家裁としては、その運用の在り方は悩ましい問題ないし宿題を投げかけられたといえるでしょう。
3.こどもとの交流の試行的実施(家事事件手続法152条の3、258条3項、改正後人訴法34条の4)
民法ではなく、家事事件手続法ないし人訴法という民法の手続法ないし訴訟法の改正がなされました。
民法の改正ではありませんが、訴訟法において、当事者に対して、こどもとの交流の試行的実施を「促す」ことができることとされました(家事事件手続法152条の3第1項)。
試行的実施といってもピンとこない人が多いでしょうが、現在も行われている①家裁調査官による、②交流場面観察、という③調査官調査という事実の調査のことをいいます。
しかし、田舎の裁判所では、実施できないことも少なくなく、弁護士に実質的に調査官活動を委ねているケースも少なくないと思われるため、地域の実情に応じてこのような条文の文言になったものと思われます。
したがって、条文上は、調停委員会における当事者間での「試み」も含まれますが、多くは家庭裁判所のプレイルームを使用して交流場面観察という調査官調査の一環として行われるものと思われます。
しかしながら、これまでも交流場面観察や当事者間での試しの面会交流は家事調停で斡旋されてきましたので、法的根拠を与えた以上にそれほど大きな改正点ではないように思われます。
その法的効果も、公正ないしデュー・プロセスを重視する訴訟法に規定を置いていることに照らすと、不偏不党の立場からの立法でなければならないのは当然のことであり、いやしくも家裁がいずれかに肩入れしているとの疑念を抱かれるようなことがあってはならないといえるでしょう。
なぜなら、これは実体法の規定ではなく、訴訟法の規定だからです。
もっとも、これまでも緊急の必要性がある場合は家事事件手続法上、面会交流についての審判前の保全処分が制度としては認められていましたし、これからも認められます。
審判前の保全処分は、「強制執行を保全し、又は子その他の急迫の危険を防止する必要がある」という法律要件があることから、面会交流の審判前の保全処分が認められた決定は少数にとどまっていました(参照、福岡家裁令和4年6月28日判例集未登載)。
したがって、面会交流の実施に緊急性があることはほとんどないというのがこれまでの家裁のプラクティスと評価することができます。
もっとも、これまでの面会交流についての審判前の保全処分についての法律要件の解釈については、新たな子との交流の試行的実施(家事事件手続法152条の3、258条3項、人訴法34条の4)でも厳格に解釈される方向性で参照される可能性はあるといえるでしょう。
さて、子との交流の試行的実施の法律要件としては、
①子の心身の状態に照らして相当でないと認める事情がないこと
②事実の調査のため必要があること
―という法律要件があるわけですが、通常の民事訴訟では、例えば文書提出命令は必要性なしで申立てが却下されることもあることに照らすと、これまでの面会交流の審判前の保全処分の決定や試行的面会交流の実施要領の前例を踏襲した不偏不党の運用をしなければ、家裁の利用者から疑念を抱かれるのは当然のことといえるでしょう。
そして、法律要件に対する効果は「子との交流の試行的実施を促すことができる」というものです。社会通念上「促す」という文言は、自発的に行動するように推し進めるこというのであって、強いる意味では使われません。
したがって、裁判所がそのように「促した」としても促された側は、その試行的実施に応じるかは自主的判断により決めるべきという条文構造になっており断ることもできるといえるでしょう。
- 対象事件
対象となる事件は、子の監護に関する処分ないし離婚調停・審判です。ただし、養育費は除きます。
この点、「子の監護に関する処分」は様々な類型に妥当します。例えば、①子の監護者指定、②面会交流、③子の監護分掌、④離婚調停が代表例でしょう。
例えば、子の監護分掌の審判でも対象になり得ることはそのような条文になっているという意味ではあるものの留意されて良いでしょう。
なお、人訴法では、現在面会交流は審理の対象にならないという運用とされているおのの、人訴法34条の4に同じ規定が置かれることになり、今後人事訴訟でどれくらい面会交流が審理されるのか、わざわざ人訴法が改正され34条の4が置かれたことに照らすと人訴の運用が見直されるのかも含めて、見守る必要があるといえるでしょう。とりわけ親権や監護分掌をめぐって注視が必要な分野といえるでしょう。
さて、子との交流の試行的実施を「促す」といっても具体例が分からないので以下のとおりです。
- 交流の方法、交流をする日時及び場所並びに家裁調査官その他の者の立会その他の関与の有無を定めるとともに、当事者に対して子の心身に有害な影響を及ぼす言動を禁止することその他適当と認める条件がつけられる(同条2項)。
- 試行的実施を促したときは、当事者に対してその結果の報告(当該試行的実施をしなかったときは、その理由の説明)を求めることができる(同条3項)。
4.こどもとの交流の試行的実施(家事事件手続法152条の3、258条3項、改正後人訴法34条の4)の要件とは?
- 法律要件
子との交流の試行的実施の法律要件は、①子の心身の状態に照らして相当でないと認める事情がなく、かつ、②事実の調査のため必要があると認めるとき―とされています。
繰り返しになりますが、①の法律要件については、一定程度、面会交流の審判前の保全処分の「急迫の危険を防止する必要がある」との法律要件を少し減殺した程度の要件となると考えておくのも相当かもしれません。
法制審議会の文言では、当初「親子交流の実施が当該子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限り」というような文言が採用されていました。この文言は、家裁が単独親権と指定することを義務付けられるDV・児童虐待案件であることを意味します。
これを前提とすると、DV・児童虐待案件などの特殊な事情のない限り、裁判所の都合で広くこどもとの交流の試行的実施ができるという立法提案とされていました。
しかしながら、当初案の「親子交流の実施が当該子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限り」というような文言にすると、面会交流原則実施説の運用に対する峻烈な批判と全く同じ批判が妥当するとの懸念が示されました(民法学者の窪田委員の発言)。そして、原則実施説で峻烈な批判を浴びた東京家裁が「裁判所は、ニュートラル・フラット」と宣言せざるを得なくなった趣旨を没却することになるのです(細矢論文)。
そもそも、子の心身の負担を顧みず害悪にならなければ良いという発想自体が、子の最善の福祉ないし子の権利条約からもかけ離れること、子の利益になる場合に試行的実施をすべきことに照らし、改正法下では、「子の心身の状態に照らして相当でないと認める事情がなく」という法律要件とされ、これは積極要件とまではいえないものの、積極要件に近しい法律要件と解釈されているものと思われます(池田清貴・家法51号29頁)。
特筆されても良いのは、法制審議会という場においても、「子の心身の状態」には、子の意思も含まれると解釈されており、かつ、子との交流の試行的実施が「原則実施説」であるとの誤解を招かないように明示的に文言の修正が行われたという点です。したがって、立法政策上も、面会交流の原則実施説は、センシティブに扱われているものということができ、それぞれのパーティーの利益代表であればともかく裁判所が特定の立場に立つことは不偏不党と相容れないものというべきように思われます。
②の要件は、この試行的実施は、裁判所がする「事実の調査」、すなわち家裁調査官による交流場面観察の調査官調査として行われるという意味であるから、当事者間に丸投げして行われるのは、必ずしも家事事件手続法152条の3、258条3項、人訴法34条の4の「促し」の対象にならないと論理的には解釈されることになるものと思われます。
なお、附帯事項をみると、必ずしも家裁調査官の立ち合いは不要とされているようであるが、これは田舎では家裁調査官が常駐していないことからこのような立法政策になったに過ぎず、究極的には予算の問題に過ぎません。
この点、家裁の事実の調査(編集者注:裁判所の探偵の調査活動として行われるということ)として行われることが条文上明らかであるのです。
つまり、裁判所のためにやるわけですから、エフピックなどの専門的職員や家裁の調停委員が立ち会うなど、裁判所の権力作用を委任するのに値する特殊例外の場合を除き、家裁の調査官が立ち会うことが当たり前というべきではないでしょうか。
家裁は、調査官をして、交流をする日時、場所、調査官関与(立ち合い)の有無を定め、子の心身に有害な影響を及ぼす言動の禁止の条件を附することができるとされています。
それ自体は当たり前といえるでしょうが、条件を附したら監督もなしに守られると考えるのも相当とは言い難い場合があるでしょう。
この点、できる限り、監護親やこどもの不安感が払拭する努力を尽くすべきであり、そうでない限り、「促し」には自発的に応じることはないということになりかねないということは自覚的に考えるべきように思われます。やはり「促し」と「余儀なくさせる」とは全く異なるもので距離があるのです。
裁判所も、きちんと予算を割いてやるのであれば、プレイルームにおいて、マジックミラーで監護親も交流場面を観察することができる環境下で親教育も兼ねて行うのが相当というべきようにも思われます(いわゆる松江家裁方式)。
6.こどもとの交流の試行的実施(家事事件手続法152条の3、258条3項、改正後人訴法34条の4)の結果の報告とは?
そもそも、「子との交流の試行的実施」のほとんどは、家裁の事実の調査、すなわち家裁調査官による交流場面観察という事実の調査活動として行われるのですから、調査官が結果を裁判官に報告すれば足りるのであって、第3項関係の当事者に対し、家裁が結果の報告を求めるのは本末転倒というしかありません。
東京家裁や大阪家裁といった予算が潤沢な家裁の場合、通常は、家裁調査官が立ち会いますので、家裁調査官報告書により結果の顕出が行われますので、当事者からの結果の報告は不要です。
問題は、当事者に、補足として意見を求めることは別に問題ありません。
しかしそれ以上に、当事者に「事実の調査」を丸投げして弁護士などに結果の報告を求めてくるという場合があり得ないわけではないでしょう。そもそも家事事件手続法上、「事実の調査」は「裁判所」が主体となって行う調査をいい、当事者間で行うことは事実の調査では条文解釈上ありません。
この点は、本人訴訟の場合と比較し弁護士代理人がいる場合、当該弁護士の負担感が客観的に増大するということはいえるでしょう。
調査官立会がないのであれば、家裁調停委員や手続代理人弁護士を立ち会わせるなどの代替案も運用の問題として用意するべきように思われます。しかし、筆者も、シティホテルのロビーの喫茶店で双方代理人立ち合いのうえ、面会交流を実施したことがありますし、勤務弁護士に依頼したこともありますが、弁護士に面会交流支援機関の真似事をさせることは全て相当とはいえません。
実際、相手方弁護士が面会交流支援員の経験もなく、真似事をしたため、問題になったケースを経験したこともないわけではありません。
こどもの利益に関わる以上は一定の第三者性も必要とされると観念的ないし哲学的にいうことはできるのです。
したがって、第3項関係で当事者に、「主観的事情の報告」を求めることがどれくらい有意であるのか、これまで多くの家裁プラクティスに関与してきたものとして極めて疑問を抱きます。
ところで、家裁の「促し」は、とりわけ監護親の承諾がなくても行えます。しかし、「促し」である以上、当事者の自発性に委ねられます。
そのため、自発的意思を「促した」にもかかわらず試行的実施がなされないというのは改正前のプラクティスでもまま経験するところであって、法制度上の限界はあるものと思われます。
この点、いかほどの実効性があるかは知らないが、家裁は、実施しなかった理由の理由開示命令を出すことができるとされているようです。
この辺りは、アメリカ・ウィスコンシン州の面会交流に関連した理由開示命令に似た法制といえるかもしれないが、そもそも、家裁が不偏不党ではなく、一方当事者に肩入れしており、例えば監護親たる母親が裁判所を「敵認定」してしまうことも十分考えられるところである。したがって、アメリカがそうであるから日本もそうするというわけにはいかず、極東アジアにおける面会交流情勢を総合的に較量しなければならないように思われます。
すなわち、不実施は、審理の参考にする程度に留め、監護親の不利益に考慮することは許されないというべきように思われます(同旨、池田清貴・家判51号30頁)。
7.祖父母と子との面会交流(民法766条の2)の新設
祖父母とこどもとの面会交流は、最高裁判所の判例によって明示的に否定されてきました(最決令和3年3月29日集民265号113頁)。今回の改正のパワーワードともいうべき改正の目玉です。
この点は、これまで事実上子を監護してきた祖父母であっても面会交流を求めて、家裁に子の監護に関する処分を申し立てる権利はないとされたのです。この点は、立命館大学の家族法学者たちの立場と相反するものではないかと思われ、筆者は疑問に思っていました。
また、祖父母など父母以外の第三者が、自己を子の監護者として指定するよう審判の申立てができるかについては、東京高裁では否定説、大阪の家事抗告集中部では肯定説、名古屋高裁では否定説が採用されてきたところでした。これについても、上記最決令和3年3月29日が第三者の申立権を否定し判例の統一が図られました。
わたしも、第三者を当事者にして家裁に持ち込んだら、名古屋家裁から「名古屋地方裁判所に行ってください」といわれ、大阪高裁管内と違うと若いころは主張したことがあったものです。
しかしながら、法制審議会では、祖父母を念頭に孫との面会交流を求めることができるルール作りが必要であるとか、事実上祖父母が監護者に相応しい場合、父母以外の第三者が自らを監護者となることの指定することを求めて審判の申立てをできる、いわゆる関西学派のルールを設けるかどうかが議論されてきました。
かくして、東京学派の見解を採用した最高裁の判例は、様々な問題を引き起こしたものの、民法766条の2は、関西学派の祖父母の面会交流権を民法上認めることにしたものであり、委細は家裁の審判に運用が委ねられるものと思われます。
ただし、祖父母の面会交流は、文言上、「特に必要があると認めるとき」という限定が附されており、地域の実情や家裁裁判官の人生観・成育歴などに影響されるところも大きいように思われます。
祖父母は第三者であるため無制限の面会交流は条文上も認められていません。
- 家裁は、子の監護に関する処分の審判において、子の利益のために「特に必要があると認めるとき」は、子の監護について必要な事項として、父母以外の親族と子との交流を実施する旨を定めることができるとされました(民法766条の2第1項)。
- 祖父母独自の面会交流権は、子の利益のために「特別の必要性があるとき」に限られる
現在の実務では、祖父母の面会交流は、例えば父親などの非監護親の面会交流に便乗したり面会交流補助者となったりする形で実施されることが多いし、おそらく今後もそうでしょう。
祖父母の面会交流が独自に問題になるのは、自分の息子が何らかの事情で死亡し、孫にアクセスできなくなったときなのです。これは、アメリカの祖父母面会交流法制でも同じです。
この点、父母間の協議で、任意に祖父母との面会交流について定めることは可能であるものの、現在の最高裁判所の判例に照らして、家裁が審判で祖父尾との面会交流を命じる例はほとんどないように思われます。
日本では、筆者が得た祖父母との面会交流を命じた審判は、名古屋高裁で覆されてしまいました。
ところで、一般論として、こどもにとって、祖父母との面会交流はそれなりに人格形成に資する面があるものといえるものの、こどものスケジュールを制約したり禁止したりしてまで実施する必要性が特に高いかといわれると恐らく多くの人たちが疑問を抱くでしょう。
社会的にも東京など首都圏で暮らす核家族の場合、いわゆる「盆暮れ」くらいに互いの祖父母を訪問する程度にとどまっていることや、「盆暮れ」は、こどもはもちろん監護親も休息の時間と考えられること、面会交流支援機関である「第三者機関」も休業しているところが多いと考えられることに照らすと、民法上の権利が認められたからといって、その権利の具体化を考えるプロセスでは慎重な判断が必要であるように思われます。
特に、第一義的な扶養義務を負っていない祖父母との面会は難しい問題です。こどもの視点から見ると、抽象的には、ルーツを知るといった作業以上に、特別に得るものが大きくないのです。
その余は個別具体的なこども次第といったところもあるのであって、裁判所が公権力をもって強制し得る問題かは別問題であるかのように思われます。
この点、池田清貴・家判51号30頁は、子と当該祖父母との間に親子関係に準じた親密な関係が形成されているといった過去の事実関係がある場合に限り、「子の利益のために特に必要があると認めるとき」という要件が実定化されたと解説しています。
祖父母と孫との関係は様々であり、例えば、ヨーロッパ高齢化ジャーナルというホームページに掲載されている論文では、「ヨーロッパにおける祖父母の育児の蔓延」「孫との定期的な面会と社会活動への参加」「孫のケアは祖父母の自己評価の健康に影響するか」「継祖父母と継孫の関係の複雑さを探る」「中国で孫の世話をする祖父母の健康への影響」といったものが見られます。
しかし、あくまでも面会交流は子の利益を最も優先して行われるべきという点は変わらないことから、祖父母の面会交流は、単純に祖父母側からの親族としての情愛に基づくものと判断される場合、「子の利益のために特に必要があると認めるとき」という要件との関係を家裁がどのように整理するかは将来の残された課題といえるでしょう。
このような問題はアメリカでも生じており、アメリカでは面会交流権を持つ者を拡大させる州が増えているものの、指摘されるのは「祖父母目線」で、しばしば孫が自分の生活の中で重要な位置付けである、という点に過ぎず、子の最善の福祉との関連性が薄くなってきている点は指摘することができます。
また、働く父母が増えたことにより、孫に親責任を持つ祖父母が増加傾向にあるという社会モデルが影響を与えているのではないかとも推認できます。
もっとも、アメリカでは、祖父母の面会交流権が問題になるのは、自分のこどもが死亡しこどもを通じて面会交流できなくなった場合、離婚、親権争いが起きた場合などが想定されているものと思われます。
ワシントン州の最高裁は、祖父母面会交流法が、過度に広汎故に実親が子育てに関与する基本的人権を侵害しているとして憲法違反との決定をしています。このワシントン州の最高裁決定後、祖父母の孫への面会交流がより制限的になったと指摘する弁護士もいるようです。この点については、最後に少し触れたいと思います。
このように、監護権を持っている親権者の親権を侵害しない範囲で、第三者の適正な面会交流の範囲をどのように位置づけるかは将来の残された課題といえるでしょう。
- 申立権者の範囲
祖父母の申立て以外の範囲はどこまでできるのでしょうか(民法766条の2第2項2号)。
この点、多くは母親が想定される監護権者の応訴の負担や濫用的申立てへの懸念が高まっていることも否定することはできないものと解されています(池田清貴・家判51号31頁)。
したがって、父母間の面会交流調停ないし審判でフォローできる場合は、独立した申立てを認めるのは相当ではありません。
そこで、父母以外の親族が申立てができる場合を、父母の一方の死亡や行方不明等の事情によって父母間の協議や父母による申立てが期待し難い場合に限定する趣旨で、「その者と子との交流についての定めをするため他に適当な方法がないときに限る」との条文がもうけられており祖父母の面会交流の調停などの申立権は制限されていることに注意が必要です(民法766条の2第2項柱書括弧書)。
加えて、祖父母と孫の面会交流の趣旨は、従前既に形成されていた愛着関係の維持という保守的な目的のためにあります。したがって、このような趣旨に照らして、新たな関係を築くことは想定されていないと思われることから、①直系尊属、②子の兄弟姉妹、③その他の親族のうち過去に当該子を監護していた者―に限定されることになりました(民法766条の2第2項2号)。
なお、今後、上記①から③の者も即時抗告権を持つ可能性があるため(家事事件手続法156条2項)、確定時期に留意が必要です。
8.結びに代えて
面会交流については、様々な議論が将来に残された課題とされた。例えば、面会交流の法的性質論であるが、裁判所では、非監護親が家裁に子の監護に関する処分を申し立てる権利と位置付けているように思われるが、法制審議会では、非監護親の権利という説、こどもの権利という説、こどもの権利であることを否定する説などがあり、民法学者においてこどもの権利であることを否定する説がいくつか出されたことはいささか意外に思われるが、やはりわたくしは東京学派の学者たちの理論には賛同しがたい点がある(特に、東大の大村)。
学理上の問題は兎も角、家裁では、監護親及び非監護親のいずれの側にも偏るべきではない「ニュートラル・フラットモデル」(前掲細矢)が提唱され、ひたすら子の最善の利益を最優先に考慮する立場であり、この実務に異論を挟む者は実務家ではほとんど見られず、むしろ、これに沿っていない個別裁判官のケースの運用に手厳しい批判があるように思われます。
このほか、親教育のため、協議離婚の場合、離婚後養育講座の受講なども議論となったが、これらは啓発業務であり、立法を待たずとも行えることであり、また、家裁では、子の監護が問題になる事案ではDVD受講の推奨があるものの、それに対する追跡調査の結果もなく、単なる哲学ないし価値判断のみで立法をするというのは難しいように思われます。
結論的には見送りは妥当でしょう。
この点、離婚に反対する当事者が離婚後養育講座などを受講しないことで協議離婚が無用に引き延ばされるといった弊害や、子の親権者が長期に渡り決まらないという弊害も容易に想定されることなどから、要件化は将来の残された課題とされました。
立法政策の問題としては、韓国のように領事ないし判事の前で宣誓するという方法もあり得るだろうし、中国本土の法制のように離婚にクーリングオフを認めるということもあり得るのですが、精神的成熟性が進んだ我が国において、中国本土や韓国と同じ法制を採用することはにわかに同調し難いものがあるというべきです。
やはりこどもの問題と離婚それ自体の問題は分けて考えるべきように思われます。
このほか、面会交流を直接強制できないかという議論もあり得ましたが、面会交流は、数次執行が予定され平成24年の東京高裁決定に相反することや、子の身体への負担が過酷であることから、中間試案以降は提示されることなく将来の残された課題となりました。
このほか、面会交流支援団体について、ある程度、行政や裁判所によるチェックや認証が必要であるうえ、予算的支援もするべきとの議論もあり得ましたが、予算がないため、将来の残された課題となりました。裁判所の予算は3000億しかなく、日本大学の予算規模と同じです。それくらいなのです。
ところで、面会交流については、全体的に見ると、祖父母の面会交流が限定的に認められたことを除くと、現在の実務に法的根拠を与えたものにとどまるものと考えられ、面会交流を取り巻く社会情勢が大きく変化するとは考えにくいものといえます。
もっとも、最高裁が明示的に否定した祖父母の面会交流を立法的に解決したことにより、面会交流という議論自体が、法的議論はさて措き社会科学論において変容することは予測される一方、いわゆる監護親が面会交流を取り巻く多くの訴訟を抱えるといった副作用を抱えるという側面も否定できません。
いずれにしても、「行政による面会交流支援制度」に「しっかりと予算」をつけて「行政が地域の実情に照らし自前で」支援に乗り出すことが、必要かつ相当であるように思われます。
9.第三者である祖父母の面会交流権が母親の親権を侵害するため、限界があるという法理について
非監護親とこどもとの面会交流は、子の監護について必要な事項として定めるのですが、その内容は、こどもを監護する監護親の監護教育内容と調和する方式と形式において決定されるべきであるもの(最決平成12年5月1日民集54巻5号1607頁の判例解説=杉原則彦『最判解民事篇平成12年度(下)』514頁(法曹会、2003年))とされています。ここでは、いわゆる武藤裕一名古屋家裁判事(元職)の見解を分析していきましょう。
したがって、監護親の明示的な同意なく、1か月に1回を超える面会交流頻度を超えることは、監護親の監護教育内容と抵触するものと考えられるうえに、こどもにとって肉体的精神的に負担となる可能性が高く(東京高決平成26年2月6日、京都家決平成26年2月4日判タ1412号394頁)、非監護親が高頻度の面会交流に固執しているという当事者間の紛争性の高さに鑑みても、1か月に1回を超える頻度を定めることは、相当ではない(武藤裕一名古屋地裁判事『家庭裁判所の判断基準と弁護士の留意点』155頁(新日本法規、2022年))とされている(以下、「武藤説」という。)。
しかしながら、武藤説は、案じるところ、憲法問題を孕むものと考えるのが相当である。アメリカの連邦最高裁は、2000年、Troxel vs Granville,530 U.S.57(2000)は、祖父母の孫の面会交流権が母親の監護権を侵害しないかが問題とされ、憲法違反との判決がなされたものである。
すなわち、連邦最高裁は、修正14条のデュー・プロセス条項を指し、監護親は自分のこどもの育児や教育について決定を行う権利が、憲法によって保護されているとして、監護権は祖父母との面会交流権に優先されると判決した。
この点において、連邦最高裁は、母親が祖父母との面会交流を一定程度許可しているにもかかわらず更にその量的拡大を求めたことを問題視して、ワシントン州が定める祖父母面会法が過度に広汎であるが故に無効として、ワシントン州のみならず全ての州において立法政策に大きな影響を与える判決となりました。
この連邦最高裁を受けて、ワシントン州最高裁は、2001年、In re Parentage of C.A.M.A.,109 Wn.App.460において、監護親である母親から父方祖父母の面会の範囲を制限するよう求める申立てを起こし、父方祖父母は、孫との面会交流をワシントン州法に基づき起こしたというものです。
ワシントン州の最高裁は、祖父母は、祖父母との面会を制限することは監護権の範囲内であるとして、祖父母に広く面会交流を認めるワシントン州法を修正14条に反し違憲との判断を行いました。ワシントン州のケースでは、しばしば一般的に見られるように、離婚後、母親が父方祖父母との関係を悪化させており、子の福祉に悪影響を及ぼすという事実関係があることも指摘されます。これまで、父親は非監護親であるとしても「第三者」とはいえませんでしたが、祖父母は我が国の最高裁が面会交流権を明示的に否定した「第三者」である以上、その介入の範囲が広すぎてもいけないことは、上記で紹介した二つのアメリカの連邦最高裁、ワシントン州最高裁の判決に照らして明らかなのです。
このような理論的背景から武藤説は概ね妥当ということができ、結論において相当といえるのです。
したがって、民法的解釈からも、第三者の面会交流は、非監護親と比較して、制限的に考えられることになります。
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