面会交流の権利性
最近,レベルの高い弁護士が面会交流の権利性を論じていましたが、従来の最高裁判決の調査官解説では、面会交流は権利ではなく裁判所に対する処分を求める権利にすぎないと解されています。
そして,近時間接交流に関する数次の最高裁決定でも面会交流の民法上の権利性については、避けながら説示が行われました。
実務的には,最高裁調査官解説のとおり面会交流は権利ではないと考えられるべきでしょう。改正後の民法766条1項が明記をしたとしても、子の監護に関する処分の一例として挙げたものにすぎないと解されます。面会交流に関する実証的研究の論文も、最高裁の調査官解説の見解をとり権利性を否定しました。
しかしながら,上記改正民法に照らすと,面会交流については,民法上の権利であるものの、財産法上の権利と家族法上の権利は異なることから,権利性を認めても要件事実的処理はできない、つまり東京家裁で事実上失敗あるいは激しい巻き返しにあっている原則実施説の根拠となる権利・義務発想は,こどもの情操と金銭請求を一緒にしたものであり、明晰な区別が必要であることを看過しているから,原則実施説よりも総合考量説の方が妥当のように思われる。
面会交流請求権は,民法上の権利ではあるものの、財産法上の権利と同じものではありません。たしかに面会交流請求権が民法上の権利であるとすれば、最高裁が間接強制を意識した決定を次々に出したのはなぜか、間接強制が認められるのはなぜか、という問題に直面してしまいます。
もっとも、家族法の権利の由来については、事実関係に先行して権利が生じるという側面があると解される。したがって、父親とこどもの事実としての関係に、その程度に合わせ相補的補完的に権利性の強弱が生じると解するのが相当のように思われる。そして,家族法は,関係性そのものを権利として認めるのであるから,面会交流については親子という事実関係から生じる権利であると解される。
しかしながら,いわゆる子連れ別居をされた場合に、その関係性は希釈化されるのであって,その関係性の回復又は濃度を高める権利が面会交流請求権というべきである。
そうすると,子連れ別居などにより,親子の関係性には変化が生じうるし、離婚後親権者が定められた後にも変化が生じる可能性がある。このような理論的視座からすれば、監護親と子との具体的・個性的な関係性、非監護親とこどもとの具体的・個性的な関係性を比較対照して,その可否や具体的内容を形成する。
しかし,いったん認められた面会交流であっても、いつまでもそのままであるということはないと解される。なぜなら,事実の先行が権利性の論拠になっている以上、事実が変われば権利性の程度にも変化が生じるのであって,その関係性は流動的であるといわなくてはならない。面会交流請求権は権利であるが,事実状態や関係性の変化により権利性の程度が高まったり減退したりする権利であり、突き詰めると不安定な権利であると解するのが相当である。
したがって,権利があることを前提に原則実施説をとるのではなく,総合考量説に立ったうえで面会交流請求権が存在するかが,理論的には妥当のようなものと考えられる。
では、なぜそのような不安定な権利があるかというと、親子の人間的愛着形成が、こどもの発達に良い影響を与え精神の安定に寄与することが多いという経験則もあるだろう。
日本では、家族の単位は夫婦であり、親子関係はさほど重視されていないことは,韓国民法との比較法的考察より明らかというべきである。そうすると,法制度上の理論的視座から論じるとき、親子の間の人間関係という関係がさほど重要ではないという論理的帰結になるのは、夫婦別姓に関する最高裁大法廷判決,再婚禁止期間に関する最高裁大法廷判決の趣旨に徴すると,そのような結論になるとも解される。しかしながら,家族法は、社会通念により確立されるべきであって,嫡出子相続分差別違憲最高裁大法廷判決などに照らすと,社会の家族感情の変化により,夫婦が基礎的な単位でありつつも,親子関係が希釈化するべきという時代的要請があるわけではない。そして,離婚や別居により、親子の関係性が毀損された場合は、その回復を求める権利が、従前の親子の人間関係などの程度に応じて発生すると解される。
したがって,面会交流権は権利であると解されるが、上述のとおり従前の親子の人間関係など事実の先行により、その権利性の程度には強弱があるといわなければならない。そして,その権利性の程度に応じて,親子の関係の修復を図るべきものと考えられる。そして,核家族化や再婚など,婚姻関係のダイバーシティを目の前にすると,こどもは,生来の父と面会する権利があるといわなくてはならないし,父の側は,従前良好な父子関係を築いていたという事実の先行があるならば、その程度に応じて相補的に権利が生じるものと解される。そして,極度に離婚後に断絶をするなど,極端かつ一方的な態度をとる監護親も少なからずいることに照らすと,実質的な親子関係が立たれないように、その親子関係の修復を求める権利があるというのが時代の要請と解される。
私は、法哲学的人間関係論から面会交流の権利性を論じているとの指摘もあるが、その側面は否定できず,かつ,そのような思考過程はそもそも実質的親子関係がないのに,「血縁」のみで,面会を認めるということは相当であるとは到底思われない。したがって,先行する親子関係があるそれが法的に権利として保護に値するから毀損された場合には、その修復をして人間関係論としても,その修復を図るべきものである。心理学的、精神学的、家裁調査官の単なる技術論、家裁裁判官の浅慮な原則実施説にいずれも与することはできない。
以上の諸点にかんがみると,私は,祖父母の孫との面会交流も,実質的関係性があれば,その面会交流の申立ができるように推していくべきではないか、と考える。
平成12年杉原調査官解説は,私見に抵触する限度で変更されるべきである。
このように考えると,今後は,面会交流について強制執行について直接強制を可能とする法整備も法理論上は検討課題になるだろう。最高裁は間接強制に次々と判例を出したが,ある意味では,立法府に対する直接強制を求めているものと考えられるように思われる。最後は監護親の善意に委ねられる現在の面会交流制度の建付はときに前向きであり、時に後ろ向きである。
以上のとおり法改正によって、非監護親から監護親に対する民法上の権利の一つであることに変わりはない。しかし,それは絶対無制約なものではなく,諸事情を総合的に考察し,修復するべき人間関係という事実関係が先行しているかという理論的観点が必要のように思われる。この点、調査官調査では、子の心情が急に拒否的になることもあるが、従前の父子関係についてやや思慮を欠いている側面もある。たしかに,父親が経済的側面のほか、その役回りが重要になってくるのはスポーツなどを教えるときなどが中心になるかもしれないが、従前の父子関係について良好であったものの、その他の要素を総合しても,権利性を否定することはできず、制限事由は存在するにしても、権利性を否定できない以上は却下するのは相当であるのか、それは、法理論から考える裁判官自体も、上述の見地からさらに不断の検証をしてゆくべきものではないかと考える。