離婚後共同親権導入と子の養育をめぐって
離婚後共同親権導入と子の養育をめぐって
令和8年までに離婚後共同親権導入を伴う民法改正が令和6年成立した。
日本では、令和4年の協議離婚数は87パーセントとされ、調停が関わる事例も増加しているとはいえ、協議離婚から見える子の福祉と、離婚調停ないし離婚訴訟から見える子の福祉から見る景色は相当に異なるように思われる。
一番大きな違いはいうまでもなく、DVを代表とする高葛藤事例(緊張状態が高い事例)が家庭裁判所に持ち込まれやすく、そうでない事例では協議離婚でまとまりやすいというのは、極東アジアを振り替えれば、韓国も台湾も同じであるように思われる。一例を挙げれば、こどももおらず、財産もないカップルは簡単に離婚が成立するが、その逆となると、複雑なパズルを解く作業が待っている。
もっとも、筆者も立命館大学で講演を聴いた法制審議会に参加した心理学者の資料によると、心理学的知見では、離婚後の父母の良好な協力関係がこどもの適応を良好にする効果を持つ一方で、離婚後に父母が葛藤対立を抱えたまま共同養育することがむしろ、こどもの適応に悪影響が出るという指摘もあった。この点を的確に指摘する佐野論文も現れた。
最も重要なように思われたのは、共同養育をしたか否かによって、心理学的には顕著な臨床学的に有意な差はないという結果であった。
つまり、面会交流をしてもしなくても心理学的には有意な結果は得られなかったというのであり(若干、面会交流した方が心理学的にポジティブであったが統計学上は誤差の範囲といえるものであった)、裁判所が望むマニピュレートされた「子の福祉」と実際との差異を埋めてゆくのもまた法律家のプラクティスであると自覚しなくてはならないであろう。
そうすると、裁判官や父母の主観的満足にとらわれ、ある意味子の福祉がおざなりにならないかという一抹の不安はないわけではない。こういう問題意識からコラムを書こうと思った次第である。
少なくとも、離婚後に父母が葛藤対立を抱えたまま共同養育することがむしろ、こどもの適応に悪影響が出る。台湾の全判例を分析した論文によれば、統計的アプローチから共同親権を認めるメルクマールとして、父母がポジティブな協力連環を築けるかという視点が強く出ていた点は、現在の令和6年改正法議論に欠落している分野ではないかと思われる。そして、残念ながら、父母がポジティブな協力連環を描けるかが重要であるという自覚すら未だされていない。
今、日本の裁判所は「子のニーズ」とか「愛着」といった心理学崩れの議論が流行している。
ところが、台湾の全判例を統計した臨床的研究によって、台湾の裁判官は、父母のポジティブな連環が期待できるか、抽象的なニーズではなくスキンシップやどのような背中を子どもに見せられるか、父母の一方にドラッグ、犯罪、精神疾患の廉がないかを意識的か、無意識的にせよ、判決に影響を与えているように統計学からあぶり出された。
これは我が国の子の最善の福祉の実現に当たり最大限留意されることであると思われる。
これまでは、離婚後に父母が葛藤対立を抱えたまま共同養育類似の状態になることは単独親権制度が盾になっていたということができる。
もっとも、父母が「妥協の産物」として共同親権を選択し共同養育が始まっても、父母の連環がポジティブなものといえない限り、こどもの最善の利益は後退せざるを得ないように思われる。
ひとたび紛争が高まると、裁判所も父母も、こどもの声なき声を無視しがちである。
そこで、自分なりにこどもの権利、当事者支援体制、裁判所の運用の明確化という視点を補足して述べていきたい。
こどもの意向表明の立場からぜひ参考にして欲しい。
1.理念の周知
令和6年改正民法は、複雑であり、その細かな改正事項に目がゆきがちであることは否めない。
もっとも、親の責務(改正後民法817条の12)や親権の性質(818条1項)の改正ないし明記は選択的共同親権の解釈や子の意向表明権の考慮にも影響を与える重要なものではないかと考えられる。
日本では軽視されがちであるが、福祉の現場でもまた、こどもの権利条約12条に定める「こどもの意見表明権」は重要であり、こども基本法や子の意向表明事業を盛り込んだ改正児童福祉法も成立した以上、親の責任や親権の性質についての理念の周知が葛藤の予防に一役買うかもしれないということである。
アメリカでは、面会交流のケースは連邦最高裁に持ち込まれたが共同親権をめぐっては連邦最高裁に持ち込まれたケースはない。
これは、裁判所やメディエーション機関がこどもの手続参加を重視し、父母の了解が促進されているからといわれている。
そろそろ「こどもに決定の責任を負わせるべきではない」というスタイルから意思形成を支援するべきモデルに変化させるべきであること
令和6年の家族法の改正では、こどもの意見の尊重を明記すべきではないかという意見があったし解釈論でも否定はされていない。
また、日本はこどもの権利条約を批准しており、こどもの手続参加権や意向表明権は条約で定められているこどもの権利である。
既に家事事件手続法にはドイツ法を模範としてこどもの意向の考慮についての規定はあるものの、真正面からこどもの権利条約12条の趣旨を踏まえるべきとの意見によるものではなかったように思われる。
しかし、子に決定の責任を負わせるべきではないとの反対意見から明文化は見送られたというものの、実際は、子の意思形成に割けるマンパワーが不足しているのではないかという疑問がある。
もっとも、こどもの権利条約12条が多く意識されるのは、児童相談所で保護されているこどもの意向などを聴く際などが典型例とされ、なぜか日本ではアンタッチャブルなゾーンとして離婚とこどもの問題は位置付けられているように思われる。
例えば、児童相談所などの一時保護への訪問アドボガシーなどは多くの篤志家がボランタリーな活動で意向の形成の一助となっているのに対して、離婚は、そこまでの問題として扱われていない。
しかし、児童相談所でこどもの意向を聴く事業がスタートしているのに、離婚の場合ではこれが実現されないのは不条理に思う。
家庭裁判所調査官は、いわゆる組織アドボガシーであり、専門性はあるものの、その意見は組織の論理で歪め得るものと理解されている。加えて、行政の虐待担当の職員と比べてこどもの権利条約への理解が欠落しているように思われる。
したがって、いきなり離婚という展開になった場合、さっと、こどもの権利条約12条と結び付かない方々は少なくないように思われる。
この点は、本来、こどもの権利は離婚や虐待のときだけ問題になるものではなく、「日常的な生活の中にも声がある」ということがあまり自覚されてこなかったように思われる。正常な時に「権利の担い手」という自覚がないこどもが、病理的なときに権利をとなえて手を挙げることは難しい。しかし、正義とは、「不正義を感じるとき」にこそ正義を自覚するものであり、平時における啓もう活動は欠かせない。
したがって、現在、養育費が7割も不払いという嘆かわしい状況にも見ると、親の責務や親権の性質への理解は、離婚に至るか否かにかかわらず、父母が適切に共同親権を行使していくために必要なはずであり、婚姻の有無を必ずしも問わないものではないかと思われる。そうした社会の中でこどもの最善の福祉を論じるという土壌が必要であるといえる。
以上のとおり、令和8年までに、令和6年改正民法の趣旨、親としての責務、親権の性質、親権の行使方法については、社会一般の理解の底上げを図るとともに、こどもの権利の尊重も落とし込んでおく必要がある。
平時のときにこそ、こどもの権利条約を学んでおかなければ、火急のとき、こどもの権利は守られるどころか、組織(つまり家庭裁判所)の論理や父母の思惑により、こどもの利益は簡単に犠牲にされてしまうのである。
とりわけ、こどもの手続代理人制度が重要である。家裁調査官は子の意向調査といっても30分面談して、まるで全てを見たかのような調査官報告書を作成する。
日本の家裁調査官調査は以下のようなイメージである。
さすがにこのような手法は、一時保護など児童福祉法実務でも行われていない。加えて、日弁連のこどもの手続代理人の取り組みをみると、おおむね、3~4回、1時間から2時間、利害から独立した弁護士が面会して意向の形成を支援している。
離婚においても、こどもの意向を家裁調査官以外に金銭的利害から独立した民間の弁護士を含めたアドボガシーに繋げるといった活動が望ましいように思われる。
ちなみにノルウェイのファミリー・グループ・カンファレンスはこどもが出席者を決めて、こどもが司会をすることになっている。コーディネーターや教師も同席する。
イメージはこんな感じである。だいぶ日本との違いが分かるだろう。
2.効果的な支援体制の構築
令和6年改正で、家族法が、「原則共同親権」とせず「選択的共同親権」にとどまったのは、行政や当事者の効果的なシステム上の支援に乏しいということが挙げられる。たしかに、台湾やイギリスのように、離婚について行政のサポートが得られれば、「原則共同親権」としやすいかもしれないが、そのような土壌や予算がなく日本のシステムは脆弱といえる。
その中で、心理学者により、離婚後に父母が葛藤対立を抱えたまま共同養育することがむしろ、こどもの適応に悪影響が出るという指摘も出されたり、あるいは、共同養育をするか否かで有意な差異はそれほど見られたりしないという臨床的報告があったように思われるところである。
心理学的な見地からいうと、「インテーク」(初度の相談又は初度の感想)の重要性が高まることを指摘せざるを得ない。インテークというのは、心理学的意味合いでは、初診のことをいう。たいてい軽視している人が多いが、医師、カウンセラー、弁護士は、初回の振り分けが一番負担が重いということはほとんど知られていないし、その価値もほとんど周知されていない実態である。
みなさんのイメージでいえば、初回の弁護士相談は無料であることが当たり前というイメージが定着しているかと思われるが、心理カウンセラーは初度のカウンセリングは、振り分けを伴うこと、あるいは総合外来と同じような機能を持つことからかえってカウンセラーは高額に設定されている。
同様に、医師も初診料を徴収している。
今後、離婚にあたって手続選択にあたり、離婚検討時のインテークの重要性が高まると理論的にはいえるものの、他方、経済的出捐を伴った需要は安易に生まれるものでもなく、公的相談がインテークの代替になり得るのかといった懸念もないわけではない。
家庭裁判所それ自体が直ちに法律相談にあたることは妥当ではなく、他方、専門的なインテークができる者に対する待遇の改善もあってしかるべきであろう。
3.裁判所の運用と法令の明確化
いわずもがなであるが、法令で過度に広汎であったり漠然としたりして明確性の原則に反する場合、あるいは、裁判官によって判断に揺らぎがある場合、結果的に、離婚の当事者のみならず、その支援者に対する萎縮的効果としても働く。
刑法の罪刑法定主義同様、法令解釈でも「明確性の原則」が求められるし、離婚に関する民法の定めや家事事件手続法が複雑になったことから、法律要件を検討するうえでも要件事実論並みに法律要件は明確であった方が良い場合もある。
他方、家裁の判決や審判は、裁判官の講演でも強調されるように「ケースバイケース」であってもよい面もあるが、都度ガイドラインを設定したり、東京ルールや大阪の家事抗告ルールで不公平が不満を招いたりする場合もあるだろう。
3-1.子連れ別居の評価
法改正後、離婚協議に先立ち、当事者が子連れ別居という選択をせざるを得ない場面は今後とも予測される。
他方、離婚するに至るまでは少なくとも共同親権行使なのであって、こどもの居所指定権は、本来共同で親権を行使すべき事柄であると整理されていた。
したがって、父母間で合意できない場合、子連れ別居が「急迫の事情」(民法824条の2第1項3号)や「監護及び教育に関する日常の行為」(同条2項)といえるのか、とりわけ、いわゆるモラル・ハラスメント事案(身体的暴力がなく証明が容易ではないDV類型)や中間的紛争の在り方は、今後、影響を与えることになろう。
立法担当官の解説でも、「急迫の事情」は、父母の協議や家裁の手続を経ていては、適時に親権を行使することができず、その結果として、子の利益を害するおそれがあるような場合とされ、DV、児童虐待がある場合は子連れ別居が可能であることは争いがないとされる。
もっとも、今後は、転校を伴う子連れ別居などについては、ケースバイケースではあるものの、子の心情に影響を与える行為であり、子の監護開始の違法性要件の下、監護者としての適格性の部分で一定のネガティブな評価をされる可能性はあるものと思われる。
ただし、本案の子の監護者指定の裁判では、監護開始の違法性は総合較量の一要素とされるにとどまることは従来の法解釈と同じであると思われ、結果として、「急迫の事情」がなくても、それがあると誤信したり、子連れ別居の態様が社会通念上相当であったりする場合、はたまたテンダー・イヤーズ(乳児期)のこどもの場合、母親の移転に伴い、その庇護下にいるこどもも同時に移転するのは相当であるといった大阪の家事抗告の理論は今後とも残り得るものと考えることもできよう。
このほか、司法研究では、子の心身の安全を確保するため、やむを得ない目的による場合には消極的な評価を加えることはできないとされる(司法研究48ページ)。
この点、DV(ここでは身体的暴力と定義する)とされる事案は、「急迫の事情」があるに決まっているわけであるが、他方、いわゆる保護命令でも精神的虐待(モラル・ハラスメント)もDVに含められているから、身体的暴力のケースのみを「急迫の事情」にあてはめる矮小化した解釈もまた相当ではないという解釈になるだろうし、あるいはこれまで「監護開始の違法性」という問題設定とされた要件との関係性を周到に論じたりして、親権の帰趨を決める法解釈になってはならないであろう。
あくまで、監護開始の違法性は、現在の監護親が子の心情を傷付けた側面があるという監護態勢の一要素と位置付けられることになる。この辺りのメルクマールは、法務省が何らかの指針を示すことが望ましい。
なお、DVがあっても期間が経過している場合、モラハラの場合どの程度の証拠がいるのかなど不明点が残ると指摘する論者もいる。これ以外にも、モラハラ事案の場合は、証拠関係を整理し経過や当事者間の力関係を踏まえた分析評価が必要との学説も存在する。(掛川亜季説は、DVの主張がある他方親の同居のない別居については、他方親から子の引渡しを求められても「急迫の事情」があるとの推定のもとDVの不存在が証明されない限り、「急迫の事情」があると推定するという学説のようであるが、上記で述べたように、別居に際して父母の監護態勢の差異や子の心情も考慮して決められるべきであり、昔の学説でいうところの「子の監護開始の違法性」の論点で、「急迫性の事情」があるか否かを論じるのはいささか正当とはいえないように思われる立論であるが学説としては成り立つであろう。)
3-2.こどもの監護関係の手続関連
例えば、母が子を連れて別居した場合、今後は、速やかに裁判所に監護者指定(改正後民法766条類推適用)、特定事項の親権行使者指定(改正後民法824条の2第3項)の選択、監護分掌(改正後民法766条1項)、あるいは親子交流の選択など、こうした申立てを家庭裁判所に行うのか否か、その必要性も含めて議論の対象となるだろう(実際やったら家庭裁判所がパンクするという議論もあろう)。
また、裁判官の論文でも示されているとおり、東京以外ではこどもの手続代理人に消極的な家庭裁判所が多い。
そのため、前掲掛川亜季の学説のように、「こどもの意向がどのようなものか、親の代理人弁護士も的確に把握し」「検討する」というプラクティスには傾聴に値するところがあり、利害関係を持ちながらも一定の心理的距離をクライアントと保ち、また、こどもはサード・パーティであるという前提の下、親の代理人弁護士が意向を把握するよう努めることもあり得る。
他方当事者の親の負の感情を固定化するようなプラクティスは単に親の利益を子の利益に藉口しているだけの場合は良くないが、こどもの声は利害関係人から提出されることが多い。
サード・パーティであるということを意識し敬意を払いつつ子の意向を把握するよう努めるプラクティスは、傾聴に値する。
こうした親の代理人のこどもへのヒヤリングは有益であるという学説(木下真由美=三崎高治説)もある一方で、否定的な見解(原田綾子説、原田は、親の代理人はこどもの代理人ではなく限界論をとなえる学説として馬場陽説を引用する。)もある。
だが原田説はこどもの手続代理人が望ましいということを前提としているが、筆者は、そもそも家裁が、こどもの手続代理人が選任しないことが問題である場合にどうするのかを論じており、実務の実際に対する処方箋を示すものになっていない。
引用にかかる馬場説はこどもの手続代理人がいる場合の内在的制約をいう論理と受け取ることもでき、いかなる弁護にも内在的限界があることは当たり前といえるのであって、馬場説の原典を点検しても原田の論旨に賛成することは叙述されておらず、根拠として引用するのは引用間違いであり失当であると言わざるを得ない。)
様々な論点を挙げて争点が多様化、複雑化しているが、父母の利害関係が先鋭化すればそうなるのであろうが、子の手続参加を中心に物事を決めていく限り、本来は、そこまで先鋭化するのかという問題意識もあるところである。
3-3.リーガル・ハレーション・アップの防止
台湾では、協議離婚の場合の共同親権の割合は30パーセントにまで増加しているが、他方、訴訟離婚の場合に共同親権となる割合は、一桁が続いておりこの20年間上昇する傾向は見られない。したがって、人事訴訟に持ち込まれた離婚事件は統計的には共同親権には向かないと一応仮説を立てることができる。例えば、財産分与のみで人事訴訟を起こされているケースなどに限られる可能性もあるという仮説も立てられるだろう。
一般的に、台湾の臨床的データをみると、調停や人事訴訟に持ち込まれた時点で、もはや裁判所が単独親権と判断すべき「父母が共同して親権を行うことが困難であると認められるとき」(改正後民法819条7項2号)に立ち至っていると解釈することもあり得るかもしれない。
他方、新たな司法研究では、監護親は非監護親と子との関係に配慮できることが4つの着眼点として重視されるポイントの一つとされるよういなったことから、親権を得るためには相手方に協力しなければならず、協力すると単独親権とはならない可能性が生じるといったディレンマも想定されるといえよう。
ところで、結果的に、人事訴訟の事実認定では、DVも児童虐待も認定されなかったものの、そうした攻撃防御が集中したことにより、訴訟の係争の経過でもはや父母が協力して共同で親権を行使していくことがおよそ期待できないことも少なくない。
そのような高葛藤状態でも、父母と子との関係に顕著な問題がなければ共同親権に全てなるのか、というと、ひょっとすると台湾の全判例の統計を見る限りならないであろうとは思うが、メルクマールは必ずしも明らかではないように思われる。
裁判所としては、こうした問題に、こどもの手続代理人の積極活用や民間のアドボガシーを導入すればよく、司法の「ガラパゴス化」は避けた方が無難であるように思われる。少なくとも市民は行政機関並みを期待するだろうが実際は行政機関並みの期待には応えられないであろう。
昔、刑務所での処遇をめぐって刑事処遇委員会でも同じような議論があった。むしろ外部に委ねて外部の風を入れた方が良いという立論である。
それこそ家事調停委員に継続的にこどもの意向を聴きに行かせるといったプラクティスもあり得ないわけではなかろう。
加えてアメリカの州法では離婚慰藉料という考え方自体がない州が多いし(無過失離婚主義を採用しているため、有責性を問わない以上慰藉料の前提がなくなる)、中華人民共和国民法ですら、離婚慰藉料を請求できる場合は相当限定されており、請求者は「無過失」であることが法律要件となっており自己にも非がある場合は請求が否定される。中国民法でも、父母の感情的対立を煽りやすい離婚慰藉料に否定的評価を行っているため、財産分与や離婚後扶養を通じて解決するアプローチを採っている。
日本でも、立命館大学を中心に、「離婚慰藉料否定説」が提唱されてきた。相互に離婚の有責性を追求すると、父母の相互非難を招き、離婚夫婦の人間関係を決定的に破壊してしまうおそれがあるかもしれないと解説されている。
本来、父母が離婚しても子のことで共同するのであれば、離婚慰藉料制度を改めるということも必要となってくるであろう。
立命館大学の二宮周平教授は、「離婚に伴う苦痛は確かに存在するが、清算と扶養によって夫婦間の衡平が回復する中で慰藉される。それでも癒されない苦しみは各自の努力で克服するしかない。離婚が強いられた結果であっても自分の中で処理し乗り越えていく問題であり離婚それ自体の慰藉料を認める必要はない」と論じる(二宮周平『家族法第5版』108頁(2019年、新世社))。
今後は、離婚後扶養の問題に還元して議論をする方が現実的であろうと思われる。フランスでは、法律婚には離婚後扶養も必然的に伴うが、日本法でもそのような議論を再開するべきであり、今回の令和6年の財産分与の改正は平成7年で時間が止まっているものである。
また、現在、別居中の夫婦のこどもに関するやりとりをめぐって疲弊している父母もみられるが、選択的共同親権では、こうした子の監護について共同親権行使のため、別居状況のような状況が継続することになるため、果たしてその状態が子の最善の福祉を中心に考えるとき疑問を抱くときもある。
3-3.こどもの権利条約に照らした手続参加権
今回の家族法の改正では、こどもの意見表明が見送られた点は今後の重要の課題であるし、こども基本法や児童福祉法の改正と平仄がとれていない。我が国がこどもの権利条約を批准しておきながら、法制に反映していないとは残念ともいえる。
もっとも、条約は裁判所が裁判をする際の直接の法源になるから、民法817条の12第1項の子の人格尊重の規定と相まって、子の意見が適切な形で尊重されるべきであるとの考え方が含まれるという解釈を踏まえて要綱案は纏められている。
子の意見表明が見送られた背景には、こどもに意向を表明されて、その意向を尊重すればこどもに結果責任を負わせることになる、という批判が背景にある。
しかしながら、たしかに家裁調査官が、「30分間」でまるで全てを見てきたかのような調査官調査のプラクティスでは、こどもは調査の「客体」にされているに過ぎず、こどもは権利の「主体」であるというこどもの権利条約からすれば当たり前の考え方を踏まえた実務運用が望ましい。
まるで警察の取調べでは、こどもが自由に発言できるはずがない。だから、ノルウェイのファミリー・グループ・カンファレンスでは、陪席者をこどもが自由に選択できるようになっているのだ。
発想としては、こどもの発言を大人が聴いてやったという現状を改め、こどもの意向表明にあたっての意思形成を支援するような形での関与が望ましい。そのように、丁寧にこどもの声を聴く実務こそ、不偏不党であり納得される信頼される司法の前提といえるであろう。
また、児童福祉の分野でも、こどもの意向表明は重要な権利と位置付けられており、福祉の分野よりも家裁の方がこどもの権利が劣後するというのでは、司法の威信を著しく損ねるといえるであろう。
宿泊付の面会交流をする際、非監護親側から宿泊分の食費は要しないなどの理論で、養育費を含む婚姻費用をカットできるはずだという主張は、平成中期から出されている主張であり、現在は面会交流を理由とする養育費の調整はほとんど否定されている。
しかしながら、監護分掌ということになり、一年の半分を父母でそれぞれ過ごすとなった場合、養育費の分担も変更を要することになるであろう。複雑な実情に沿ったものが算定表で導けるかは微妙である。
とりわけ、週4母、週3父が監護といった交替監護の場合は、父が母に養育費を支払うとしても、相応の調整をするのが合理的であろう。
臨床経験上、こどもへの愛情とお金は全く別の感情を当事者は抱く。
つまり、父がやっとの想いで念願の宿泊付面会交流を実現させたと思ったら、やにわに父がその宿泊分の養育費の減額を求めようとするのである。
たしかに、子育て世代が若い方々が多く、彼ら自身もまだ十分な可処分所得がないといった問題点もあるだろうが、共同親権下で監護分掌をするような場合、執筆時点(令和6年11月16日)では児童扶養手当も出ないものといわれているから、調整についての研究は家裁で研究し、それをなるべく早く弁護士会と共有するべきように思われる。
オーストラリアでは、養育費を減じることを自己目的化させた父親が過大な面会交流を要求し、養育費の減額を裁判上求め続け、DVが離婚後も続く共同親権の不適切事例が現われ、このことが共同親権法制のリセッションに少なからず影響を与えたといわれている。このような養育費減額目的の面会交流は子の最善の福祉に反する。
かように、「監護分掌」ないし「共同養育」というのは夢のような制度ではなく、むしろそこから、離婚後共同親権に対するネガティブな評価が広がりかねない試金石ともいえるのであり、子の最善の福祉を中心に据えた運用が望まれる。
4.こどもを能動的権利主体と位置付けるパラダイムシフトが必要
アングロサクソン法(英米法)では、子の意向は、「Having a Voice, No Choice」という法格言があった。こどもには意見があるが、責任を持つのはこどもではないということであるが、実際のプラクティスを経験すると、こどもの意向にコミットして、継続的に意見形成を支援する活動こそ有意義であるように思われる。加えて、子の意向は変化し得るものであり、永遠に変更できないものという前提自体が間違っているように思われる。
例えば、面会交流は、原則としてこどもの利益に適うものというものが多い。多くの裁判官や弁護士もそのような意見であろう。しかし、ケースバイケースの中で、個別具体的に面会交流がこどもにポジティブな影響を与えるかは別の話しである。
加えて法制審議会のメンバーであった心理学者の臨床的研究において、共同養育についてあくまで心理学的な見地という留保付であるが、①シングルでの養育、②並行養育、③共同養育―を比較して研究したところ、父母が協力的な共同養育は他方親との関係性が良かったものの、児童の心理学的な予後いついては他に有意な点を見出すことはできず適応に万能とはいえないと報告された。そしてオランダの3万人に対する追跡研究では、共同養育の方が問題行動の出現率は一応低いといえたが誤差のような差異しかなかったという内容であったという。そのうえで母子がともに精神的に健康であり、人生の満足度などにも影響しているとのことである。
また、葛藤が高い場合は離婚後、こどもに悪影響が出たり、父親の問題行動が尻学的にこどもに影響したりするとの報告がなされた。
以上のように、単純に、「面会交流は子の福祉に適する」というのは一般論であり、法制審議会に参加した心理学者の研究によっても、ケースバイケースということにも留意が必要である。
他方、元調査官の臨床的調査では、一応面会交流は子に良い影響を与えるとの報告もなされている。これは、立法でも前提とされていることではあろう。
いずれにしても共通しているのは、父母が揉め続けることが良くないという点は共通している。元調査官は、別居親に暴力があった場合、面会交流の促進は子の問題行動を引き起こすリスクが高まるとの指摘をしている。
5.元家裁調査官の講演を参考にした見解(抄訳)―面会交流支援機関の立場から
5-1.親子交流の3本の矢
以下は、元家裁調査官の講演を参考に形成した見解である。筆者の意見とは異なるがおおよその内容は実際の講演に概ね基づいている。このような見解もあり得るのだと検討の一助としていただければ幸いである。面会交流支援機関からの視点は少ないと思われるので、参考になろう。
親子交流を考える場合、①こどもの権利条約、②こども基本法、③改正民法が重要である。
「虎に翼」に象徴されるように、支援の視点としては、リーガルな側面だけではなく、臨床心理学の立場、すなわち人間の発達観に基づく愛着障害ないし自尊感情の回復が重要であるとされる。面会交流支援をするにあたっては、愛着形成のやり直しという意識も必要であるように思われる。
「虎に翼」は、一つは罪刑法定主義と尊属殺というテーマがあったが、家裁の話しでは、「成長のやり直し」という理念があった。本来は、それについては家庭裁判所調査官の役割であったが、現在はそうではなくなってしまった。(虎に翼では、調停委員がこどもに直接、どちらについていきたいかを尋ねるシーンもあった。新しくも古い問題である。)
面会交流が良いものである、という理想に燃えるのは良いが、父母の具体的・日常的視点と乖離していればならず肌感覚と合っていないと支援は実現されない。
加えて、家裁はこどもの心身の生活的基盤の安定を無視しているから、実施機関はそういう観点の留意が必要である。したがって、こどもの心身の生活基盤の安定が心理学的に損なわれるのであれば、裁判所の決定がどうであれ支援はすべきではない。(面会交流支援機関は家裁の下請けではない。)
5-2.離婚についてのこどもの心情
離婚についてみると、一般論として、こどもが自己否定の心情を抱くことがある。両親はもとより完璧ではないのであって、相互に補完し乗り越えるべき課題といえ、相互に欠点を指弾し合っても無意味である。満点な人でなくてもやむを得ない。
母親を中心とする同居親からすると異なる価値観を抱くと思うが、折り合うことも大事である。
「理想の上司」がいないように「理想の家庭」も存在しないが、最低限とはいえ仲直りをしておくということもポイントである。
5-3.女性、こどもという「個人尊重」の流れと「家族療法」という集団療法の矛盾について
学会でも話題になるところであるが、女性にしても、こどもにしても、「個人の尊重」という立場、「個人の尊厳」という立場からサポートをするのが民主的といえる。
しかしながら他方で、家族という「集団」をサポートするという視点を欠いていたのではないかという考え方も出てきている。
これまでは、「家制度」からの「解放」という文脈で個人主義がとなえられていた。たしかに、日本でも東京以外はこういう視点は今でも重要である。しかし、欧米では、個人主義は尊重されつつも、家族からの分断の修復という視点から家族の関係性を考えさせる「家族療法」というアプローチも見直されている。江戸時代と揶揄される地方ではともかく、東京ではこういう視点も重要であろう。
しかし、集団を優先すれば個人の尊厳は後退するわけであるし、個人を優先させれば家族は修復されないのであり、多方面の配慮が不偏不党の立場からできれば良いが、実際上は難しく、最終的には子の最善の福祉により決せられることが多い。
5-4.こどもへの個別性への留意が必要
家庭裁判所が批判を受けるべきは、こどもの個別性に留意していないことである。発達障害はもちろん、ACEs(Adverse childhood experiences)という小児期逆境的問題に対する無理解である。
面会交流では、DVもさることながら、ACEsが原因となっていることも少なくない。
面会交流の合意ができたといっても、それはリーガルの問題であり、心理学的には、ACEsを無視するような親子交流は二次被害そのものである。
ひょっとすると、トラウマという言葉にまとめられるかもしれない。
一例を挙げると、発達障害でいえば、発達性トラウマ症を抱えるこどもは5人に1人はいるという。フラッシュバックもあるが、身体症状や抑うつなどが現われる。
このことは既に学問的に明らかになっており、家裁調査官の調査のポイントである養育環境というところは正鵠を射ていない。ACEsの問題は峻別しなければならないのである。
家裁が無理解である以上、支援の現場ではこのような理解が必要である。
5-5.面会交流支援機関からも「やって意味ある面会交流か点検を」
家裁が決まったからといって、面会交流支援機関が唯々諾々と従わなければならないわけではない。
重要なのは、援助する者が①父母関係と②親子関係の区別ができているか、②未来志向であるか、③コミュニケーションであると考える。
こどもを板挟みにして、ジキルとハイドのような面従腹背のような面会交流をしても有意義とはいえない。やって意味のある面会交流であるかの点検が必要である。
5-6.実際は、行政の支援は簡単であり法律改正もいらないこと
そもそも自治体は面会交流への関心が薄い。児童福祉法を所管しているので手が回らないような感じもある。行政は子育て支援、将来の健康的なメンタルをもった人材育成という観点が欠落している。これを家裁に期待するのは無理である。
例えば、明石市では面会交流支援事業をしているが、担当者は3名のみである。第一日曜日に実施し、月曜日に代休をとるだけで特に予算が増えたという話しも聴かないのである。非常勤公務員を雇うという手もある。
既にカネをかけないでできることは実証されているが、なかなか世間の関心が非常に低いことが大きい。最終的には自治体でやることがゴールだろう。
誤解なきようにしていただきたいのは、我々は、メッセンジャー・ボーイではない。受渡しの支援だけするとか、日程調整アプリとか、そういうものは本質的なものではない。
支援団体では、面会支援ができるか、1回、2回では結論を出さないで対応している。経験的にいえることは、怖がっていることと嫌がっていることの峻別はポイントであると思うし、往々にして家裁は見逃している。
こどもが面会のための条件を述べる場合、こどもが父を恐れており、心理的距離がある。この場合は父指導が必要であるという現実を父自体も受け止める必要がある。
なお、母に対する嫌がらせが目的の面会も往々にしてある。このような場合は軌道修正が容易ではなく中止するほかない。
分離不安の問題もあり、父からすれば無意味に思えるかもしれないが、支援者と母子の3名で面会のプラクティスを積むということもある。分離不安の問題の解決を丁寧にするとこどもが嫌がらなくなる可能性も生じるが、家裁はこの辺りを急進的に進めようとしてたいていトラブルを生じさせている。
ところで、父は面会できるようになると、次は頻度を気にするようになるが、率直にいって、面会交流は脆いものであるから継続することに力を注ぐことが要諦である。そもそも頻度を上げることをこどもが希望しているのか、という問題がある。
家庭裁判所が面会交流を原則実施するという面会交流原則実施説を強行し、世間的に家庭裁判所は信頼を失墜させ、児童精神医学者らの辛辣な批判を浴びる結果に終わったのである。
葛藤状態が高い場合、支援者の立場から見ると、「やってやれないことはない」という感じであるが、こどもの負担が重たく無理して会わせるメリットがあるかどうかを検討模索することとなる。
さきほど述べた分離不安やACEsという問題は、アメリカでは保険診療の対象としてみんな付き合い方を学んでいるが日本ではそこまで進んでいないが対応が必要である。
もと家裁調査官の経験でいえば、裁判官自体が話題になったパワハラ知事のようなケースもあり単独体の悪さが出ていることもあったし、結論ありきということもあった。
支援団体は支援団体の十分な臨床的知見の観点から支援をするということであろう。
以上