松戸100日面会交流判決の再評価と監護分掌・共同養育計画
いわゆる年に100日の面会交流の計画を提案した非監護親を未成年者の親権者と定めた事例
現在、「監護の分掌」ないし「共同養育」という議論が国会で行われているとのことです(2024年5月13日時点、共同親権に関する民法改正案は衆院で可決され参院に送られていますが、法律案は広く公開されているとはいえない段階での執筆となります。)。
もっとも、「監護の分掌」ないし「共同養育」というのは、いったい何を意味するのでしょうか。
この上記、非監護親に親権を認めた松戸支部の判決自体は、東京高裁平成29年1月26日判例時報2325号78頁、最決平成29年7月12日ジュリ1518号81頁で、変更され、親権者指定は監護親の指定し直されています。
一般的には、共同監護関連の裁判例としては、「監護者指定の必要性を検討し、子らの心情や、共同監護のような現状を考慮し、父母のいずれかを監護者として指定することは相当でないとして監護者指定の申立てが却下された事例」などがあります(大阪家決平成26年8月15日判時2271号111頁)。
もっとも、松戸支部の判決が出された経緯というのは、裁判官としても簡単に「100日の面会交流を監護親に認めるから、非監護親に監護させて良いものである」と単純に判断したものではありませんでした。
今後は、立法政策により、祖父母の面会交流権も認められることになるでしょうから、離婚紛争中に面会交流に拒否的な態度が著しい場合、親権者の裁定に当たっても裁判官が子の最善の利益の観点からそれを考慮することができるといえるでしょう。
どのようなバックグラウンドで松戸支部の判決は出されたのか?
●XはYに対して、暴力などにより子人関係が破綻したとして、離婚及び慰謝料500万円などの支払いを求める人事訴訟を提起しました。
●X及びYとの間には、監護者指定の審判が先行しており、Xが監護者に指定されていた。
●被告は、予備的主張として、親権者をYに定め、Aを引渡しのうえ、附帯処分として、X及びAの面会交流について共同養育計画案に基づいて、時期・方法等を定めることを求めた。
●予備的附帯処分で面会交流の申立てがなされることは比較的珍しいことである。
●Xは国連職員であり、Yは国家公務員であった。
●Xは、国連職員として働く傍ら、大学院の博士課程に通っていた。
●Yは、Xが大学院に通っている間、専らAの監護を行っていた。
●Yは、NHKに出演し、面会をテーマにした取材に応じた。
●XはYに対して、保護命令の申立てをしたが、取下げに終わった。
●その後、XはYとAとの面会交流を拒絶するに至った。
●今度は、Yが、自身を監護者に指定することを求める監護者指定事件が係属したが、松戸支部は監護者をXに指定した。
●Yは、二度に渡って、監護者変更の申立てをしたが、Yの申立てはいずれも却下された。
●家庭裁判所調査官の調査では、YとAとの交流状況は良好との意見が出された。
松戸支部の案件のポイント
●実質的には、Yは面会交流を求めており、家裁調査官の報告書でも面会には問題はなかった。
●しかし、XはAについて5年10カ月間、面会交流は6回しか応じていないし、今後も順調な面会交流が実現する見通しが立たない状況である。
●他方、Yは、資産家であり、国家公務員であり任命職に就いていること、監護補助者に問題がなく監護意欲やXとAとの面会交流にも反対していない。
●松戸支部の異色な点は、人事訴訟であるにもかかわらず、面会交流を実質審理し、具体的な妥当な解決策を示そうとしている点にあると思われます。
●裁判官は、極端かつ一方的な案しか示せないものは、一般に評価が低く、双方に花を持たせるような解決策を示せるような内容であることが望ましい。
●福岡家裁平成26年12月4日において、面会交流に拒否的な監護親につき、非協力的であることをもって親権者を変更するとの判断をしたことも考慮に値するものとされています。
●東京高裁平成15年1月20日においても、「抗告人との面接交渉について柔軟に対応する意向を示している被抗告人に監護させ、抗告人に面接交渉させることにより、こどもの精神的負担を軽減し、父母双方との交流ができる監護環境を整え、もって事件本人の情緒の安定、心身の健全な発達を図ることが望ましい」とされています。
●令和の初頭までは、「面会交流原則実施説」が採用されており、面会交流の4つの拒否事由がない限り面会を認めるというものであり、こうした点から松戸支部のXに対する評価は必ずしも高いものとまではいえないものと考えられます。
松戸支部の判決文
今後、仮に離婚後共同親権が参院で可決された場合に、「監護の分掌」や「共同養育計画」というものの具体的な内容が分かりません。そうすると、フレンドリー・ペアレンツ・ルールの判決とされていましたが、今後、フレンドリー・ペアレンツ・ルールではなく、国会で議論されている「監護の分掌」や「共同養育計画」における公式な裁判例があるということで多くの法律家が参考にするかもしれません。仮に、共同監護であるとか、監護の分掌であるとか、共同養育計画というものに、裁判例がないため、どうしたら良いのだろうと、イメージが湧きにくいという点があるかもしれません。そうすると、判例時報に掲載された判例は今後参考にされることはあるかもしれません。
親権者についての判断の部分は以下のとおりでした。
「原告は被告の了解を得ることなく、長女を連れ出し、以来、今日までの約五年一〇か月間、長女を監護し、その間、長女と被告との面会交流には合計で六回程度しか応じておらず、今後も一定の条件のもとでの面会交流を月一回程度の頻度とすることを希望していること、他方、被告は、長女が連れ出された直後から、長女を取り戻すべく、数々の法的手段に訴えてきたが、いずれも奏功せず、爾来今日まで長女との生活を切望しながら果たせずに来ており、それが実現した場合には、整った環境で、周到に監護する計画と意欲を持っており、長女と原告との交流については、緊密な親子関係の継続を重視して、年間100日に及ぶ面会交流の計画を提示していること、以上が認められるのであって、これらの事実を総合すれば、長女が両親の愛情を受けて健全に成長することを可能とするためには、被告を親権者と指定するのが相当である」
「原告は、長女を現在の慣れ親しんだ環境から引き離すのは、長女の福祉に反する旨主張するが、今後長女が身を置く新しい環境は、長女の健全な成長を願う実の父親が用意する整った環境であり、長女が現在に比べて劣悪な環境に置かれるわけではない。加えて、年間100日に及ぶ面会交流が予定されていることも考慮すれば、原告の懸念は杞憂にすぎないというべきである」
この判決は、Xの側から子の監護者指定の裁判、Yの側から子の監護者指定の裁判、Yの側から子の監護者変更の裁判が2回起こされており、それにもかかわらず面会交流が1年に1回程度しか実現していないという事実関係においての判断であったと見ることが相当といえるでしょう。
比較衡量の立場からすれば、松戸の裁判所は利益衡量の基準として、「長女が両親の愛情を受けて健全に成長することを可能とするため」という視点から比較衡量をすることを示しています。
現実に母親は、現時で面会交流にほとんど応じておらず判決後も応じる保障があるとはいえないこと、母親が提示した父親と子との交流条件と、父親が提示した母親と子の交流条件からすれば、後者を前者を有意に上回り、非監護親の社会的地位、資産家としての地位、国家公務員としての地位、監護補助者がいるなどの事実関係が考慮されているということ、過去、非監護親が監護親が大学院に進学していた時代、監護をしてきた実績があることも考慮された結果と見ることができるでしょう。
判決に対する規範は、具体的事情に応じて定立されるべきですから、今後も、こうした比較衡量の在り方は一概に否定されるものではなく、「監護の分掌」ないし「共同養育計画」などを策定に当たり考慮されるべき判断要素ということがいえるのではないかと思われます。
共同養育計画とは?
共同養育計画であるとか、監護の分掌といっても、ピンとこないというようにも思われます。
少なくとも、松戸の事例では、判決文から見るのに、6歳から9歳くらいではないかと思われます。
松戸の裁判所は、面会交流について次のように判断しました。
「被告は、原告と長女の面会交流に関し、「共同養育に係る計画(案)」を提出している。その骨子は、①原告とその両親が、監視のつかない面会交流が長女の利益に適うことを認め、その旨の書面を被告に提出しない限り、面会交流は、被告が指定した機関の監視下で行う。②監視下の面会交流が終わった後は、隔週の金曜日の19時から日曜日の19時まで面会交流を認める。これ以外に、祝日、春の連休(4月29日から5月5日)及び長女の誕生日について、隔年ごとに面会交流を認める。そして、原告の誕生日と年末(12月23日から12月30日)については、毎年面会交流を認め、加えて、夏に二週間、それ以外の時期にも一週間の長期面会交流を認める。 ③面会交流の場所は、原則としてA内に限る。④開始時及び終了時の長女の引渡しは、被告の住居で行う。 ⑤国外への連れ去りを防止するため、長女の旅券は銀行の貸金庫に預ける。 ⑥1日に1回、1時間を限度として、電話での交流を認める。 ⑦被告は、被告が正当な理由なく上記面会交流に応じない場合は、それが親権者変更の事由となることを認める。 というものである。このうち、①の監視付面会交流について、被告は、監視付面会交流が非人道的で屈辱的なものであることを原告に理解させるために、このような定めをもうけた旨述べるが、監視付面会交流が子の利益に適わないことは自明のことであり、この定めは不要である。上記②の面会交流の頻度及び時期等については、当事者双方が面会交流の意義を理解している限り、面会交流に関する最近の研究結果からみても適切なものということができる。 面会交流場所に関する上記③の定めは、双方の居住地に照らせば相当である。引渡し場所に関する上記④については、原告の抵抗感を考慮すれば、被告の実家とすることに問題がないとはいえないが、最寄り駅などを待ち合わせ場所とした場合に生じ得る待ち時間や悪天候の場合の不都合等を考えれば、実施回数の多い本件の場合、できるだけ長女の負担を減らす方策として、長女の居住地を引渡し場所とする上記定めは合理的というべきである。 長女の旅券は、親権者となる被告において管理することになると考えられるところ、被告が長女を連れて国外に移住する可能性は低く、本件において、上記⑤の取決めの必要性は認められない。 上記⑥及び⑦はいずれも相当である。
そこで、以上を前提として、原告と長女の面会交流の要領を別紙「面会交流の要領」記載のとおりとする」
面会交流の実施要領が共同養育計画になるのか?
「1 定期的な面会交流 ●本判決確定後、最初に来る金曜日の19時から日曜日の19時までを1回目 ●以降、隔週の金曜日の一九時から日曜日の一九時まで、面会交流を行う。 ●面会交流の場所は、原則としてA内に限る。 ●開始時及び終了時の長女の引渡しは、被告の住居で行う。 2 不定期の面会交流 ●定期的な面会交流の外、祝日、春の連休(4月29日から5月5日)及び長女の誕生日について、隔年ごとに面会交流を認める。そして、原告の誕生日と年末(一二月二三日から一二月三〇日)については、毎年面会交流を認め、加えて、夏に二週間、それ以外の時期にも一週間の長期面会交流を認める。 ●この場合の面会交流については、その具体的日時、場所、方法等は、長女の福祉に配慮し、事前に当事者双方が協議して定めることとする。 3 電話での交流 ●一日に一回、一時間を限度として、電話での交流を認める。 4 被告の不履行の場合の特則 ●被告は、被告が正当な理由なく面会交流に応じない場合は、親権者変更の事由となる」
東京高裁平成29年1月26日の正確な内容
上記の松戸支部の判決は、東京高裁平成29年1月26日判例時報2325号78頁で変更されました。
この点、争点は、①離婚原因はいずれにあるのか、②親権の帰趨-が争点となっています。
この点、控訴審は、妻は、夫のせいで国連への復帰を断念せざるを得ず、夫は妻が家庭や子よりも自分のキャリアアップを優先させていたとの思いが強く対立が激化し婚姻関係が破綻に至ったものである。そうすると、婚姻破綻の原因は夫にだけあったとは認められず、慰謝料請求は理由はないとされ、妻にも有責性、つまり、離婚原因があるとされました。
この点を意図的にオミットして紹介されることが多いのでしょうが、控訴審で妻の有責性が認められるに至ったということも踏まえて、今後の話合いに活かされることが望ましいといえるでしょう。
そうすると、控訴審が、父母は共に主として、又は、専ら有責性があるとはいえないのに、長年に渡って面会交流に拒否的な意向については、かえって、問題視されるべき事情と見ることができるでしょう。
もっとも、控訴審は、本件の経緯に踏まえて規範を定立しているとはいえず、抽象的な規範の定立を行っていることに照らすと、個別具体的な妥当性があるとはいえず、また、家事事件専門の控訴審ということもいえず、通用力は乏しく、今後の離婚後共同親権法制により、立法により効力が失われたと見るのが相当でしょう。
少なくとも、現在の社会通念で「父母の面会交流についての意向が他の諸事情より重要性が高いともいえない」と判断したことは非常識の廉を免れないものであるといえます。元家裁裁判官の女性弁護士も「今の時代に面会交流に反対する弁護士などいるのですか」と発言し話題になりました。
こうした控訴審の在り方は、それの是非は措くとして、共同親権法制の大きな後押しになったといえるでしょう。
控訴審の事実認定自体は、主たる監護者を認定しているものの、母の監護状況が疎かになった大学院通学時の事情などを的確に証拠評価しているとは言い難く、結論ありきという感じがあり、比較衡量をしようという姿勢が見られないのです。
家族法といえども民法ですから、民法の解釈において比較衡量をしようという姿勢が見られないことについては、相当でないといえ、それが立法による是正につながったといえるでしょう。
その他、調査官報告書により、母の監護下で子の監護は安定しており、父母の監護態勢については決定的な差異はないとしているのです。つまり、こどもは監護態勢で見る限り、どちらで育っても差し支えない状況にあると控訴審自体認めているのです。
このように、監護態勢に有意な差異が見られない場合は、面会交流は重要な要素になるというべきでしょうから、控訴審の誤謬は立法で正されることになったといえるでしょう。
なお、子の意思は小学校3年生であり、明示的に認定するには足りない事例であったように思います。
説得力のない控訴審の違和感は立法による是正につながった
上記のように松戸の判例は、その経緯の中から出されたものであり、経緯を斟酌して個別具体的に判断されている点が特色ですし、松戸の判例に沿う東京高裁決定や福岡家裁決定もあったところでした。
ところが、控訴審の判例は、次のようなものでした。
「一般に,父母の離婚後も非監護親と子との間に円満な親子関係を形成・維持することは子の利益に合致することであり,面会交流はその有力な手段である。しかし,親権者を定めるに当たり,非監護親との面会交流に関する事情は,唯一の判断基準ではなく,他の諸事情よりも重要性が高い事情でもない」との一般論を展開してしまいました。
これは、当時、面会交流実施説で運用していた家庭裁判所も相当ではない決定と考えたのではないかと思料されます。
上記の「一般論」は、「離婚後も父母は円満な関係をそれなりに維持することは重要なこと」と述べつつ、一般的に重要な要素である「養育費」と「面会交流」のうち後者を軽視する一般論を示しました。これが妥当でないことは、おおよその社会通念とするところと思われます。
このような面会交流を軽視する一般論を示したことで、一般論は立法で是正しなければならないという動きが強まっていったものと言わざるを得ません。
控訴審は、「面会交流は重要ではない」と言い切った後、色々述べていますが、「面会交流は重要でない」という一般論を展開した後で個別的な事情を取り上げたことで「結論ありき」の牽強付会を述べているに過ぎないということになってしまうわけです。
したがって、説示自体が出来の悪いものであったことは否定することができないと思われます。
今後考慮されるべきこと
控訴審の判断が警戒を呼んだため、今後は、立法において、「母宅と父宅」を濫りに離すこと自体も警戒されるようになったといえるでしょう。
また、「片道2時間半程度離れた距離関係」にならないように引っ越しを禁止すべきだ、という考え方につながりやすくなるのではないでしょうか。実際台湾では、共同親権下では、こどもの引っ越しには共同親権者の同意が必要です。
なお、面会交流をすると、「身体への負担のほか,学校行事への参加,学校や近所の友達との交流等にも支障が生ずるおそれがあり,必ずしも長女の健全な成育にとって利益になるとは限らない」と述べており、面会交流の家庭裁判所が述べる意義自体を否定してしまっていることに照らすと、控訴審を立法で是正する必要性が大きくなったという力が働いたといえるでしょう。
そして面会交流をしなくても、「長女の現在の監護養育状況にその健全な成育上大きな問題はなく,長女の利益の観点からみて長女に転居及び転校をさせて現在の監護養育環境を変更しなければならないような必要性があるとの事情は見当たらないことも総合的に勘案」というブラックボックスが登場していますが、多くのこどもを連れた別居は転校を伴いますので、大上段の議論が過ぎて、監護親側も控訴審でブーメランを受ける形になりました。
したがって、父母双方にとってプラスにならなかった控訴審といえるでしょう。
いずれにしても、東京高裁平成29年1月26日判例時報2325号78頁は、双方にとって無益な判決であったと言わざるを得ず、今後、離婚後共同親権制度がスタートすれば、フレンドリー・ペアレンツ・ルールを論じる必要はありませんし、面会交流が重要でないという一般論を展開している点で、およそ家庭裁判所が賛成し難いものとなっており、その通用力はなくなったと解するのが相当でしょう。
東京高判平成29年1月26日が起こした軋轢
最判令和5年7月11日の渡邉惠理子裁判官は、
●「両者間の利益衡量・利害調整を、合理的関連性の基準にように感覚的・抽象的に行うことは許され」ないとしました。
●そして、比較較量は、実質的合理的関連性の基準のように「客観的かつ具体的な利益衡量が必要である」とされています。
●渡邉裁判官の趣旨は、「女性は多様性に満ちており、女性といえども一枚岩ではない」という趣旨を述べます。
●ステレオタイプな女性像なるもので判決した東京高裁を批判しています。
一般的に、女性裁判官のほとんども、面会交流制度には賛成しているところであり、政治的な党派性を裁判に持ち込んだために大きな軋轢を起こしたということがいえるでしょう。
つまり、渡邉裁判官が述べるように「女性といっても多様な反応があり得るところであり、女性と一括りにするのは相当ではない」というのも今後の考え方といえるでしょう。
本来、裁判所に求められるのは、量的な調整ということもでき、一方を一刀両断すれば、軋轢が高くなるということができ、東京高判平成29年1月26日は、社会学的見地から見ると、家事法を片手間で扱った家事抗告集中部がない東京高裁の「失敗だった」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
諸外国との違い
とはいえ、本件のXのように大学教授であれば可能かもしれませんが、一般的な会社員やこどもの学校状況に照らすと、年間100日の面会交流は現実的ではないかもしれません。
というのは、フランスの場合、例えば「水曜日が休み」であり、「長期休みが夏休みを除いて4回程度ある」とされており、そういう機会に面会交流をすれば良い諸外国と我が国は少し事情が異なるように思われます。
なお、控訴審の後、谷垣法務大臣も、面会交流の期間は「年間12日、24日、36日」といった答弁をしましたが、結局、現実それが実現されていない事実関係の下での控訴審判決に、多くの識者からの賛同は得られないでしょうし、谷垣法相の答弁とも異なるように思います。
今後の共同監護計画
今後の共同監護計画はまとまらない場合は裁判所が定めるものといわれています。
松戸の裁判では、「夫は100日」、「妻は12日」を提案して、それらを比較し、裁判所は、当事者の主張に囚われることなく、職権で決められるのではないか、と思います。
松戸の裁判の面会交流調停
面会交流の回数などについて母親は、今回の裁判とは別に調停を申し立てられていたということのようです。
松戸支部の判決は、立法政策に十分な影響を与える結果に終わりました。
控訴審が面会交流制度を否定的に捉えたことも、かえって共同親権制度の導入を後押しするものになってしまったといえるでしょう。
特に、控訴審は、母も有責性があると指摘しつつ、「父と長女の面会交流は2010年9月から2017年1月26日の現在」まで途絶えていることを軽視したことに批判が集まったものと考えられます。
谷垣法務大臣は、「面会交流に積極的な親が監護権決定に有利に働くように、あるいは面会交流を正当な理由なく破ったら監護権者の変更の重要な要素になり得るというご指摘は、いずれも一般論として異論ありません」と指摘しているところでした。
このように政府の見解として一定の合理性が当時からあるものであった。
また、名古屋家裁では、子連れ別居の経緯が相当でない場合は、「継続性の原則」は適用しないとした判決もあります。
しかし、父母の過度な軋轢は、子の最善の利益を害すると言わざるを得ず、父母間の葛藤を子に影響を与えるのは相当ではありません。
朝日新聞の取材によれば、
●早稲田大学の棚村政行享受は、「日本は面会交流が円滑にできる場所や相談態勢が十分ではなく、父母間の紛争を招きやすい状態になる。判決にこの現状を改善すべきだとするメッセージがなく残念」とコメントしている。
●「離婚後も両親が共同で共同で子育てができるようにするための法整備を進め、面会交流の実現に向けた社会的支援を充実させることが必要」とコメントされています。
当時は、松戸支部の判決は、「ショック療法」と理解され、「フレンドリー・ペアレンツ・ルール」如何という問題となっていましたが、多くの国民の違和感を買った結果、「離婚後共同親権制度」という制度の導入が検討されるに立ち至ることになりました。
今、考えれば、このころの松戸支部の「フレンドリー・ペアレント・ルール」を子の意向に代わるものとして、真剣に議論していれば、離婚後共同親権という議論までは出て来なかったのかもしれません。
●毎日新聞は、「同居親側の主張がほぼ通り、面会交流や共同監護に積極的な別居親には納得のいかない判断だろう。紛争解決につながらず火に油を注ぐ恐れがある」
●「面会交流は実績に応じて段階的に増やす等別居親にも子にも妥当な案を提示する工夫をすべきだった」との記事を掲載しました。
●このように、社会通念も、紛争解決につながらず火に油を注いだだけであったと言及しています。
●百瀬孝雄弁護士は朝日新聞の取材に「面会交流の実現に踏み込んだ判断をして欲しかった」
●毎日新聞の取材に「これまでの家裁実務を単に踏襲した内容で、判決は評価できない。面会交流は子の利益になることが理解されておらず6年間も父親の愛情が受けられず、交流がほとんどできないことを裁判所がどう考えるのか言及がなく残念」
●母親の姿勢にい反省を求め十分な内容の面会交流を促す指摘もできたはず。
●今後の家裁実務で両親の共同養育の重要性を認識させる判決が望ましかった
と指摘されています。
これらの経緯も、離婚後共同親権制度の導入の一つの歴史といえるのかもしれません。
まとめ
今後、改めて参考になるものとして、千葉家庭裁判所松戸支部の判決(千葉家松戸支判平成28年3月29日判例時報2309号121頁)が取り上げられるかもしれません。
たしかに、これも一つの参考になるかもしれません。もっとも、Yのもっているバックグラウンドが華麗であったということもあり、射程は広くないかもしれません。
松戸支部の決定は、あまり評釈が公表されず、高裁で破棄されたことのみが強調されたのですが、その高裁が通用力を失うこともあり、改めて多くの法律家に法律に従った現実的運用論を議論していかなければならないものと考えられます。
なお、控訴審については、現行法下では、具体的事情の下で、母を親権者と指定することは相当のように思われましたが、理由付けで面会交流の重要性を一般論で否定するなど、個別具体的事情からの事実認定で親権者を認定すれば足りるにもかかわらず、松戸の判決を全面的に否定したいがために、非常識な一般論を展開してしまい、立法的修正の対象になってしまったという点では、その時だけは良かったが、判決は将来にも影響を与えるものであり、大きな家族法の地殻変動をもたらした問題判決に位置付けられるでしょう。