憲法前文を同性婚禁止の根拠にした東京高裁令和7年11月28日の誤り
憲法前文を同性婚の人権制約の根拠に用いることの誤り
――東京高裁令和7年11月28日同性婚合憲判決批判・非嫡出子相続差別事件反対意見(尾崎行信・泉徳治)からの再構成――
1 問題の所在──「前文・子孫」からの人権制約へ?
東京高裁令和7年11月28日判決(同性婚訴訟控訴審合憲判決、裁判長東亜由美、裁判官右田晃一、裁判官林史高)は、憲法前文の「われらとわれらの子孫のために」の文言に着目し、婚姻制度を「次世代の形成・子孫の存続」を中心的目的とする制度として構成しつつ、現行民法・戸籍法が異性婚のみを婚姻として認めていることを合憲と判断した。基本的人権の尊重の尊さを説く憲法前文を人権制約の根拠にするというのは憲法学的センスを疑わざるを得ず、およそ憲法の番人に値しない。
ちなみに、法務省大臣官房参事官であった法務省の弁護士に突然裁判長が交代した。東亜由美裁判官は法務省大臣官房参事官、法務省行政訟務課長出身でいわば「法務省の弁護士」であり、判検交流の象徴のような人物である。
故に、制度的・構造的利益相反が甚だしく国民から信託された司法権を濫用したものというほかないのではないか。
判決の内容も、まるで「全農林警職法事件」を彷彿させるロジックに衝撃を禁じ得ない。また、「弁論主義」を理由に人権が認められないのであれば、訴訟制度自体を否定している。訴訟制度は19世紀的国家観でも必須のものであり、逆立ちしたロジックが目立つ。
同判決のロジックは、概ね次のように整理し得る。
憲法前文は「子孫」の観点から国家・社会の存立を構想している。
その「子孫」の保護・継続のための中核制度が婚姻・家族制度である。
したがって、異性間による生物学的再生産を前提とした現行婚姻制度の維持には、前文上の根拠があり、同性愛者カップルを婚姻から排除することも、立法裁量の範囲内の選択である。
ここでは、憲法前文が、本来は人権保障と立憲主義の理念を宣言する「入口規定」であるにもかかわらず、逆に特定の婚姻モデル(異性愛・生殖中心モデル)を正当化するための「制約根拠」として用いられている。
この点こそ、非嫡出子相続分差別事件の反対意見(平成7年7月5日大法廷決定・尾崎行信反対意見および追加反対意見、平成15年3月31日第一小法廷判決・泉徳治反対意見)からみると、きわめて危うい憲法理解である。加えて、婚姻の自由を制約する根拠に憲法前文を用いるという憲法学説は存在せず、詭弁である。これでは「権力の番人」ではない。相続分差別は周知のとおり、結局全員一致で違憲判決へと判例変更されており、最高裁大法廷(平成25年9月4日)の判例とするところであり、大法廷判決の趣旨に相反している。
以下では、①前文の機能をどう位置付けるべきか、②身分に基づく差別の「合理性」審査の水準、③多数決構造の中で代表を得にくい少数者に対する司法の役割、という三点から、東京高裁判決を批判的に検証する。
2 前文は同性婚の「人権制約条項」ではない
――尾崎行信反対意見が示した構図
(1)人権規範の基調としての前文
尾崎反対意見は、非嫡出子相続分差別の合憲性を検討するに際し、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される。」、24条2項の「相続…に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」を出発点とする。そして、これらを14条1項の平等原則と結びつけ、「相続制度における差別的取扱いも、個人の尊厳と結びつけて審査されなければならない」と明確に述べる。
ここで重要なのは、家族・相続に関する立法の合憲性は、「個人の尊厳」と「平等」を基準として審査されるべきだと、尾崎意見が繰り返し強調している点である。
前文は、その基調(民主主義、人間の尊厳)を宣言するものであって、憲法の前文は、人権を制約するための「上位目的」ではないことは精読すれば明らかである。
憲法前文は、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言する。東京高裁のこの判決こそ、「専制と隷従、圧迫と偏狭」そのものであり、我が国の国際人権法としての名誉ある地位を著しく陥れるものである。
ところが東京高裁判決は、前文の「子孫」の文言を、あたかも個々の同性カップルの人格権・婚姻の自由を制約し得る国家目的であるかのように読み替える。
これは、尾崎反対意見が描いた「13条・14条・24条を基調とする家族法審査」の図式を、前文を介して逆転させる試みだと言ってよい。
(2)立法目的と手段の「より強い合理性」テストとの衝突
尾崎反対意見は、非嫡出子相続差別の合理性を判断するに当たり、
「単なる合理性の存否では足りず、立法目的自体の合理性およびその手段との実質的関連性についてより強い合理性が検討されるべきである」と述べる。
これは、検討対象が、単なる財産的利害ではなく、「出生という本人の努力では変えられない属性に基づく差別」だからである。
同じ構造を、同性婚の排除にもそのまま当てはめることができる。
なぜなら、性的志向が同性に向くということは、先天的か後天的かいずれにせよ、本人の意思や努力で変更し得ない性的指向・性自認に深く関わる属性であり、そのことを理由として婚姻制度から排除することは、まさに尾崎反対意見が問題にした「門地・身分に基づく差別」とパラレルである。
ところが東京高裁は、前文「子孫」を持ち出すことで、「立法目的(子孫の存続)」と「手段(異性婚のみを婚姻とすること)」との関係を、ほとんど自明視してしまう。思考停止判決といっていい。
つまり、「国家レベルで子孫を残すためには、婚姻は異性カップルに限るのが合理的だ」という古典的・人口政策的な目的を掲げ、そのもとで同性婚の排除を「合理的区別」として再構成しているように見える。
しかし、尾崎意見のロジックに従えば、以下の点でこの構成は成り立たない。
出生について責任を負うのは、専ら当該カップル・親であり、当該同性カップルの性的指向に「憲法上の制裁」を加える根拠とはならない(出生について非嫡出子が責任を負わないのと同様)。
国家の人口政策目的は、他に複数の手段(育児支援、社会保障、再分配など)があり得るのであって、婚姻の排除という最も人格的自由に重大な制約を正当化するほどの緊密な関連性を持たない。
そもそも、婚姻が「子の出生」を唯一の目的とする制度だとする理解は、こどものいない異性婚カップルも「二級市民」であることになる。再婚高齢者、子を望まないカップル、不妊カップルなどを尾崎裁判官が述べる「社会の日陰者」として扱うことに外ならず、現に婚姻制度の下にある多数の関係を切り捨てることになる。到底容認できない。
したがって、尾崎反対意見が採用する「より強い合理性」テストに照らせば、前文「子孫」を根拠とする東京高裁の立法目的論は、目的のレベルで既に憲法学的に論証に失敗しており、目的の重要性を論じるまでもなく失当である。そして、日本国憲法の前文の「子孫」は常識的理解では「世代を次いで」という意味であり、「世代」というマクロ的なものに、ミクロ的なかえがえのない個人の生き方を結びつけることは、手段との関連性もない。
前文を掲げたからといって、その欠陥が癒されるわけではない。人権を国際社会に宣明する前文の崇高さを陥れるものであり到底容認できない。
3 社会的変化と条約を無視した「前文マジョリタリアニズム」
尾崎反対意見はさらに、立法当時には一定の合理性を有していたかに見える制度であっても、「その後の社会の意識の変化、諸外国の立法の趨勢、国内の立法改正の動向、批准された条約等」によって、現在の時点では合理性を喪失し得ると指摘する。そして、市民的及び政治的権利に関する国際規約・児童の権利条約などを挙げつつ、「今日の時点においては、本件規定を合理的とすることはできない」と明言する。
同性婚をめぐる状況は、まさにこの「時間軸の中での合理性の変容」の典型例である。
G7のうち、日本だけが同性婚を認めていないこと
国内におけるパートナーシップ制度の急速な拡大と、自治体レベルでの実質的な「生活共同体」としての承認
- 同性婚のパートナーの精神的成熟さが進んでいることや高齢化が進み社会ユニットとして承認すべき必要性があること
- 保守派が支配する州も多いアメリカ合衆国でも連邦最高裁が、アンチソドミー判決で性行為には関与することは許されないとしたうえで、オーバーゲフェル判決で保守派のケネディ裁判官が同性婚の承認を宣言した。そしてトランプ政権において、オーバーゲフェル判決を覆す試みは、保守派が多数を占める連邦最高裁でも拒否されている。
経団連や主要企業によるパートナーシップ・福利厚生の整備
人権条約機関による繰り返しの勧告
こうした“事実”を前にしてなお、前文「子孫」と抽象的な「国民感情」を強調して立法裁量論に退却することは、尾崎意見が批判した「立法当時の社会観に固執し、今日の合理性を問わない姿勢」と構造的に同じである。判決は、未来に向けたルールメイキングであり、明治時代や戦中の解釈を問うのではない。同じテキスト主義であると批判されるアメリカの連邦最高裁は、公民権訴訟で「性別による差別」には「性的志向による差別」も含まれると判示している。条文通り読んでも差別だと保守派ですら述べるのだ。
しかも、尾崎は違憲判断の不遡及を提案し、既存の相続処理・合意を保護しつつも「今後」については差別的規定を排除し得ることを示した。
同様に、同性婚についても、
既存の異性婚の効力を何ら揺るがすことなく、
将来に向けてのみ同性婚を認める立法・判断の技術的選択肢
は明らかに存在する。
それにもかかわらず、「制度の混乱」や「国民の受け止め」を前提に違憲判断を回避し続けることは、尾崎裁判官が指摘したように、個人の尊厳と法の下の平等という憲法の基本原理を、立法政策の名の下に先送りし続ける態度にほかならない。
ケネディ裁判官が附言したように、同性婚の原告は、単純に婚姻生活を静謐に送りたいと思っているだけであり、婚姻の崇高さを陥れようなどと考えるものではないし、そのように解するのも正当ではない。
4 多数決の影で代表を得にくい少数者──泉徳治反対意見の射程
平成15年3月31日第一小法廷判決(預金返還請求事件)における泉徳治裁判官の反対意見は、次の一文で東京高裁判決の核心を撃ち抜いている。
「多数決原理の民主制の過程において、本件のような少数グループは代表を得ることが困難な立場にあり、司法による救済が求められている」
ここで泉が想定している「少数グループ」は非嫡出子であるが、同性カップル・性的マイノリティも同じ構造にある。むしろ、同性婚問題については、
選挙区制・政党内力学の下で、LGBTQ+当事者が国会に十分な数選出されにくいこと
「家族」「伝統」「子育て」といった象徴政治が保守政党内で強く働き、少数者のニーズが議題化されにくいこと
メディア・世論調査の設問設計自体が、多数派の家族観を前提に組まれていること
などを考えれば、泉意見の射程はむしろ同性婚事件において一層明確になっている。
にもかかわらず、東京高裁判決は、「前文が予定する国民の総意」「立法府の裁量」といった言葉を用いて、まさに泉が警鐘を鳴らした「多数決の影で置き去りにされた少数者」への司法的応答を拒絶した。
ここには、二つの意味での逆行がある。
機能論的逆行
憲法は、議会制民主主義の多数決を前提としつつ、その限界を画するために、司法権に違憲立法審査権を与えた。にもかかわらず、東京高裁は、「国会での議論が尽くされていない」ことを理由に審査を控える。その結果、代表なき少数者にとって唯一残された救済ルートを、自ら閉ざしてしまっている。規範論的逆行
泉意見は、非嫡出子差別規定について「憲法14条1項に違反するといわざるを得ない」と明言しつつ、立法による解決を待つべきだという多数意見を退けた。その姿勢は、「国会の事情」に合わせて平等原則の適用を緩めるのではなく、「憲法の要請」に基づいて国会に対し立法を促すものだった。東京高裁の前文解釈は、この流れに背を向け、前文を逆に「国会の不作為を正当化する盾」として利用してしまっている。
5 むすび──前文を「人権制約の総意」と読む危うさ
以上をまとめると、東京高裁令和7年11月28日判決は、
憲法前文、とりわけ「われらとわれらの子孫」の文言を、人権保障の基調ではなく、異性愛的婚姻モデルを固定化するための「制約原理」として読み替えた点で、尾崎行信反対意見が描いた「13条・14条・24条に基づく厳格な合理性審査」の枠組みと正面から衝突する。
社会の変化・国際人権条約・国内立法動向を踏まえて、時点修正された合理性判断を行うべきだとした尾崎反対意見の視角を無視し、前文と抽象的「国民感情」に依拠して、古い家族観を温存している。
多数決原理の下で代表を得にくい少数者こそ司法救済の対象であるとした泉徳治反対意見の警告に反し、「国会の裁量」を盾に、同性カップルという典型的な少数者グループへの救済を拒んだ。
要するに、前文は、本来「個人の尊厳」「平和主義」「民主主義」を宣言する「プロローグ」を根拠に、結論をしたが、東京高裁判決はこれを家父長的・異性愛的家族モデルが総意であるとの宣言と誤解している。家制度の残滓との戦ってきた憲法訴訟論を全く理解していないというほかない。
その結果、前文が人権保障の「入口」ではなく、人権制約の「口実」に転化してしまっている。
非嫡出子の相続分差別をめぐる尾崎・泉両反対意見は、憲法前文と13条・14条・24条の関係を、「抽象的な国民感情」ではなく、「個人の尊厳」と「少数者保護」という観点から読み直すことを求めていた。その射程に照らすとき、東京高裁令和7年11月28日判決は、前文の用い方においても、平等審査の枠組みにおいても、平成期の少数者保護論から明らかに逆行するものであり、将来の最高裁大法廷審理においては、少なくともこの前文解釈のロジックは破綻している。
最後に、尾崎行信裁判官の追加反対意見が示した、きわめて象徴的な一節を想起しておきたい。
尾崎裁判官は、非嫡出子をめぐる差別的規定が、「半人前」「社会の日陰者」として扱う感覚を社会に再生産し、そのことが人格形成に重大な障害を与えると指摘したうえで、そのような立法を存続させることは、個人の尊重と法の下の平等を掲げる憲法とのあまりにも大きな矛盾であると的確に家族法内の差別の温床の本質を理解している。
婚姻から同性カップルを排除し続けることは、法的効果のレベルのみならず、象徴的にも、当事者を「二等市民」として、制度の周縁・日陰へ追いやる作用を持つ。その構造は、身分に基づき非嫡出子を劣位に置いた旧民法900条4号ただし書前段と、決して異質ではない。
憲法前文の「われらとわれらの子孫」は、本来、すべての個人が日陰者として扱われない社会を希求する宣言として読まれるべきであって、特定の家族像から逸脱した人びとを、制度の外側に追いやるための方便ではない。
東京高裁判決の前文理解は、およそヒューマニティのない、まるでAIに適当に作らせた血の通わない、それこそ「子孫」に遺すことはできない世紀の駄作だ。ラズベリー賞を差し上げたい。
尾崎追加反対意見は、社会に「日陰者をつくらない」という平等原則の核心を突いているにもかかわらず、東京高裁は過去の大法廷判決すらまともに研究しておらず極めて失当である。人権感覚を素朴に疑う。
その意味で、将来の最高裁大法廷審においては、少なくとも前文を人権制約の根拠として用いるこのような論拠を用いれば、そもそも憲法上、国会には同性婚を認める裁量はない禁止説に結び付くものである。
これは過去の憲法判例の集積や流れ、芦部憲法学などの基本的視座を理解していない判決と言わざるを得ない。このような判決が他分野で出されれば、結局、「外在的制約説」で一括りに人権は制約され自然法としての意味を失う。
最高裁大法廷は、実質的に、「公共の福祉」の「外在的制約説」のような危険な論理を持ち出した原審の解釈を維持すべきではないと意見したい。
