婚姻費用・養育費の「始期」問題――請求が遅れると損をする理由
婚姻費用・養育費の「始期」問題――請求が遅れると損をする理由
はじめに
別居後、相手が婚姻費用を支払ってくれない。あるいは、認知が認められたのに養育費をいつから請求できるのかわからない。こうした問題の核心にあるのが「始期」、つまり「いつから支払義務が生じるか」という問題です。
この始期の問題は、金額の大小だけでなく、場合によっては数年分もの生活費が丸ごと認められるかどうかを左右します。法律相談の現場でも「もっと早く相談していれば」と悔やまれるケースが後を絶ちません。本コラムでは、婚姻費用と養育費それぞれについて、始期がどのように決まるのかを、具体的な事例も交えながら解説します。
第1章 婚姻費用の始期――「請求したとき」が原則
婚姻費用とは
婚姻費用とは、夫婦が婚姻生活を維持するために必要な費用のことです。別居中であっても離婚が成立するまでは婚姻関係が続いているため、収入の多い側(義務者)は少ない側(権利者)に対して婚姻費用を分担する義務を負います。
始期は「請求時」が原則
婚姻費用の分担額については、過去に遡って決定することが許されています(最大決昭和40年6月30日民集19巻4号1114頁)。しかし実務上、具体的な婚姻費用の支払義務の始期は、原則として請求した時点とされています。
実体上の権利はあるのかもしれませんが、相手方にとって、不意打ちとなる可能性があるため、民法と訴訟法との調和の観点からこのような解釈がとられていると思われます。
請求の方法は、調停または審判の申立てが最も確実ですが、それ以前にメールや書面などで相手方に直接請求した証拠があれば、その時点まで遡って認められる可能性があります。ただし、実務上は、内容証明郵便又は調停申立時とされています。
具体例で考える
1月に別居し、その後婚姻費用が支払われないまま、同じ年の10月に婚姻費用分担請求の調停を申し立てた場合を考えてみましょう。
相手方が1月からの未払分も分担することに同意すれば、1月から遡って支払を求めることができます。しかし相手方が同意しない場合、調停でも審判に移行しても、原則として10月(申立月)からの未払分についての支払が命じられるにとどまります。別居から申立てまでの9か月分は、認められないのです。
なぜ請求時が原則なのか
請求を受ける以前に遡ると、義務者が一時的に支払うべき金額が多額となり、義務者にとって過酷になる場合があります。このような義務者への訴訟法的配慮が、請求時を始期とする実務の背景にあります。
ただし、例外もあります。権利者が要扶養状態にあることを義務者がすでに知っており、別居に至った経緯や義務者の資力から見て請求以前に遡っても義務者にとって過酷とはいえず、免れることが著しく公平を欠く場合には、請求以前に遡って分担が命じられることがあります。
「相手が勝手に出て行った」という主張について
加害者側から「相手は勝手に出て行ったのだから婚姻費用を払わない」という主張がなされることがあります。しかし、婚姻費用の分担義務は婚姻関係が続く限り存続します。別居の原因がどちらにあるかは、原則として婚姻費用の支払義務の有無には影響しません。
ただし、婚姻費用を受け取る側に一方的に別居の原因がある場合(不貞行為をした側が別居した場合など)には、自らの生活費相当分については請求が制限される場合があります。もっとも、子どもの生活費・教育費に相当する部分については、この場合でも請求が認められます。
相手方が任意の支払に応じない場合は、速やかに調停または審判を申し立てることが最も重要です。申立てが遅れれば遅れるほど、回収できない期間が増えていきます。
未払婚姻費用と財産分与
別居期間が長期にわたり、すでに子どもが成人しているなどの事情で婚姻費用の申立てが今更難しい場合でも、あきらめる必要はありません。
離婚に伴う財産分与の中で、過去の未払婚姻費用を考慮してもらうことが可能です(最大決昭和40年6月30日)。財産分与は婚姻関係全体の清算を行う手続であるため、婚姻費用分担請求では時期的に認められなかった過去分も、財産分与の場面で主張することができます。
ただし、この場合には標準算定式・算定表による精密な計算ではなく、過去分を一気に請求される義務者の負担も考慮した概算的な金額が上乗せされる形となります。
妻が実家から帰らない場合も婚姻費用の支払は必要か
出産後、妻が実家からそのまま帰宅しないケースでも、婚姻費用の問題は生じます。夫婦は相互に同居・協力・扶助の義務を負っているため、理由もなく帰宅しないのであれば同居義務を果たしていないことになります。
しかし、出産による精神的・身体的な負担から回復するための静養や治療が必要な場合には、帰宅しないことに合理的な理由があります。また、それまでの夫の言動が原因で帰宅できない状況にある場合もあります。妻に一方的な原因がある別居でない限り、婚姻費用の支払義務は継続します。
第2章 養育費の始期――認知があった場合の特別な問題
原則は婚姻費用と同じ「請求時」
養育費の始期についても、婚姻費用と同様に、原則として請求時が始期とされています。調停または審判を申し立てた時点、あるいはそれ以前に具体的な請求をした証拠があればその時点が基準となります。したがって、養育費は比較的遡及の範囲が広がる可能性がないとはいえません。離婚時や出生時にさかのぼる裁判例もあります。
認知があった場合――出生時まで遡れる可能性
婚姻外で生まれた子については、法律上の親子関係が確定していなければ扶養義務が生じません。そのため、任意認知または裁判による認知を経てはじめて、義務者(父)の扶養義務が発生します。
問題は、認知が子の出生から時間をおいて行われた場合、養育費をいつから請求できるかです。
民法784条は、認知には遡及効があること、すなわち認知の効力は子の出生時に遡って生じることを定めています。この遡及効を根拠として、認知された子の出生時まで遡って養育費の分担を求めることができる場合があります。
大阪高裁平成16年の事例
参考になる裁判例として、大阪高裁平成16年5月19日決定(家月57巻8号86頁)があります。
この事案では、母が平成13年12月に子を出産し、平成15年3月に合意に相当する審判により父の子であることが認知され、同年4月に認知の戸籍届出がなされた後、母が養育費の分担を求める調停を申し立てました。
裁判所は、認知の審判が確定する前には母が養育費を請求する法律上の根拠がなく、調停申立時を始期とする合理的な根拠はないとしたうえで、民法784条の遡及効の規定に従い、認知された子の出生時に遡って養育費の分担を定めるのが相当と判断しました。
この事例が出生時への遡及を認めた背景には、認知請求から養育費の申立てまでの期間が短く、権利者に請求を怠っていた事情がなかったという点があります。
遡及請求が認められるための2つのポイント
出生時などより以前の時点に遡って養育費を請求するためには、次の2点が重要です。
① 義務者に子に対する扶養義務が認められること
法律上の親子関係が確定していることが前提です。任意認知または裁判認知がなされていることを、戸籍全部事項証明書や審判書・判決書で示す必要があります。
② 遡及的に請求することが当事者の衡平を害さないこと
遡及期間の長さ、未払分の総額、未払期間中の子の要扶養状態の程度、義務者が認知を知っていたかどうかなどを総合的に考慮して判断されます。
逆に言えば、子の出生から長期間経過後に認知請求をした場合や、認知後に相当期間が経過してから養育費を請求した場合には、権利者自ら請求を怠っていたとして遡及請求が認められにくくなります。また、未払分の合計額が高額になるほど義務者への影響も大きくなるため、裁判所も慎重に判断します。
第3章 実務上の重要なポイント――「早期請求」の鉄則
婚姻費用・養育費のいずれについても、始期に関する実務上の鉄則は「請求は一日でも早く」という一点に尽きます。
請求が遅れた期間分は、原則として回収することができません。別居直後からメールや書面で相手方に請求の意思を伝え、その証拠を保存しておくことが重要です。そのうえで、相手方が任意に支払わない場合は、速やかに調停または審判の申立てに進むべきです。
「まだ話し合いで解決できるかもしれない」と様子を見ているうちに数か月・数年が経過してしまうケースは珍しくありません。しかし婚姻費用・養育費は子どもや権利者の日々の生活を支えるものです。請求を先延ばしにすることで失う金額は、長期間にわたれば相当な額になります。
また、長期間婚姻費用が未払いのまま離婚協議や訴訟に至った場合でも、財産分与の中で過去の未払分を主張する余地があります。あきらめる前に、一度弁護士にご相談ください。
なお法定養育費の始期について
おわりに
婚姻費用・養育費の始期問題は、知っているかどうかで受け取れる金額が大きく変わる重要な論点です。
「別居したらすぐに請求する」「請求の証拠を残す」「調停・審判の申立ては早めに」――この3点を押さえておくだけで、後悔するリスクを大幅に減らすことができます。
婚姻費用や養育費について不安をお持ちの方、相手方が支払に応じずお困りの方は、お早めに当事務所へご相談ください。
