どうして調停に弁護士が必要かと審判との連続性
家庭裁判所にいくと、調停前置主義といわれることがあります。 まず調停をやって、審判になったらまた調停にもどるということがあります。 弁護士ですら、あるいは裁判官ですら執務上、別個の手続とは考えていないのですが、法律上は別個の手続です。 しかし、これらは法的な整備から別とされているだけであって、実際には別個でありながら調停と審判との連続性が強調されています。 そして審判は裁判と変わりません。裁判を弁護士なしでやればいのと同様に、審判に移行した場合、弁護士なしでの対応は困難といえるのです。 そもそも、調停と審判の手続の連続性から、提出された証拠が審判の前提にされているのか、調停での審理結果がどの程度把握されるのか、審判は裁判であるので裁判のような申立の特定が必要になること、証拠による証明活動が必要になることが挙げられます。 そして、実は審判は、家事事件手続法の下、ほぼ民事裁判と変わらなくなったといっていいと思います。証人尋問の規定もあります。 そうすると、これまでの調停は、合意をあっ旋するためにフェアだけではなく、いろいろな方法で合意をやってくれていた、ここだけの話しというのもあるかと思います。 しかし、「ここだけの話し」は、調停委員を通じて裁判官に伝わり、その裁判官は審判という裁判を行うことになります。心証の引き継ぎです。 ですから、裁判所が得た情報であっても、それらが弊害になることも今後ますます増えていくだろうと思います。そういう意味で話し合い中心の調停と裁断的な審判との違いが今後、さらに際立っていくのではないかと考えられるところもあります。 結局、「調停はこの場限りでもいいですから」といって合意のあっ旋に期待しても、それが不成立になってしまうと、「その場限りも含めて」裁判官に伝えられ審判の心証とされてしまいます。 したがって、昔のように、当事者がひとりで、調停員に心のすきまを話すというわけにはいかなくなってきたといえると思います。弁護士としても、言質をとられかねない発言は控えるようにアドバイスをするようになりました。ある裁判官は調停に参加して、その後審判の審問で調停での発言での揚げ足取りをしていたこともありましたので、調停=裁判という理論的視座は強まっていくように思われます。 そういう意味でかえって、裁判書類も昔は双方に送付していましたが、結局、一時的にチェック式になったものの事情説明書に対する詳しい認否が求められるようになりました。したがって、審判がとても裁判下してしまった影響で、審判の前段階である調停も裁判的にならざるを得なくなってきているということになるか、と思います。少なくとも調停の資料になって審判の資料にしないということは絶対にあり得ないですから、調停といっても不成立の場合、審判以降になるものについてはそうしたことを見据えた家庭裁判所での活動が必要になると思われます。ある本には、こうした問題は、「調停委員の矜持は、裁判官にはない知見、能力、人間性の発揮」という「精神論」に収斂していくと、結局、かってのごり押し調停や精神論調停に逆戻りになる可能性もある、そういう意味では訴訟活動に近いもので、調停委員もそれに近い対応をすることになっていき、ある本がいうような「精神論」は片隅で主張されるくらいになるのではないかと思います。