不適切な調査官調査が指摘されたケース
東京高裁平成15年7月15日は、調査官報告書についての問題点を指摘しています。 調査官といえば社会学でも心理学でも専攻しているわけではありませんが、なぜか単なる陳述書レベルの調査官報告書は「客観証拠」に近い信用性が与えられます。 しかし、中には、アスペルガーではないかと思われる調査官もいるなど、調査官も問題がある人が多いといえます。 そこで家裁調査官報告書の調査と監護者決定基準が問題になった事例を取り上げます。 東京高決平15・3・12家月五五巻八号五四頁と同様、子の監護者決定における裁判官の判断基準と、家庭裁判所調査官の調査の問題を提起している。 なんら緊急性の事実が窺がわれないのに敢えて監護者を母と定める、裁判官の意識に幼児の監護者は母とする母親優先の先入観tender yeardoctrineが垣間見える。 最近のアメリカの文献によると、子の監護者は父母どちらがよいかよりも、子の生育環境、つまり住居、地域、学校、親を含め、locationを変えてよいかどうかを問題としています(例えばABAの機関誌F.l.Q.vol.34,no.1.Spring 2000,83.に掲載のRichard A.Warshak,Social Scienceand Childrens Best Interests in Relocation Cases:Burgess Revisited)。 アメリカの法学者でありかつ精神分析医として著名なエール大学のゴールドシュタイン教授と精神分析医アンナ・フロイドとの共著の「子の最善の利益を超えて」は、裁判官が「子の最善の利益」という空虚な言葉だけで子の監護者を決定していることを批判し、子の監護の基準として「継続性の原則」「心理学的親」を挙げ、この基準はアメリカの裁判官に今日に到るまで影響を残しています。 調査官調査の問題点をみると70パーセントが監護状況の調査にあり、なぜ相手方を調査しないのか、なぜ相手方を調査したうえで適格性を判断しないのかという問題点があります。すなわち、当事者の立場からみると、監護親だけの調査で終わってしまったということになると、当事者の納得の点では大きな違いが出てくるということです。現在は、一方的に監護親だけ調査している例が多く、不公平です。そして、双方を踏まえて家裁調査官が意見を述べて、これをコピペではなく銀無のうえ判断がなされると、当事者の間の納得感は大分異なるだろうと思います。しかし、実際は非監護親は調査されないため、弁護士が調査をすることがありますが、それに対しても否定的な調査官がいるようですが、対社会的な通用力がいずれが高いか問いかけたいというべきである。 【判例】 2 当裁判所の判断 当裁判所も、抗告人の当審における主張と立証を考慮しても、被抗告人を未成年者らの監護者と定め、抗告人に対し、未成年者らの引渡を命じた原審判は相当であると判断する。その理由は、次のとおり付加するほか、原審判の理由説示と同様であるから、これを引用する。 (1)抗告人の抗告の理由(1)(本件審判手続上の重大な瑕疵の主張)について 本件審判手続中、当事者の審問がされていないことは一件記録から明らかであり、この種事件において、双方の審問をすることが望ましいことも抗告人指摘のとおりである。 しかしながら、本件における調査官調査は、被抗告人及び同代理人との面接に始まり、抗告人及び同代理人との面接をした後、未成年者らと抗告人及びその親族と川崎市中原区又は横浜市港北区の居宅において二度面接し、抗告人及びその両親と川越市の居宅で面接したほか、未成年者らが通う○○幼稚園で担任教諭等と面接し、被抗告人と未成年者らとの面接交渉の結果をも踏まえて調査報告がされている。 この間、抗告人から上申書等が提出され、抗告人から陳述書も提出され、双方当事者の意見や意向の聴取は、報告を行うに必要な限度で相応にされているとみるべきてあり、家庭訪問を通じて抗告人と未成年者らの現状調査の結果、良好な親和関係があることなども報告されているところである。これらの調査経緯に照らせば、審問の機会か与えられず、審判官が調査官の調査告書に依拠して判断したとしても、それだけて原審判を取り消し、差戻しをすべきものとまでは認められない。 また、本件につき、調停に付されなかったとしても、関連の離婚調停や面接交渉につき本件との同時解決を目指して調停が進行していたことからすれば、原審判が抗告人にとって不意打ちであるとすることもできない。 (2)抗告人の主張(2)、(3)(本件調査報告書の問題点、母親優先の原則)について (1)抗告人主張(2)(1)の誤りがあることはそのとおりである。しかしながら、これらの誤りは誤記の類であると評価でき、これらが直ちに調査意見に結びつくものとは認められないし、これらの誤りにより調査報告書そのものが杜撰極まりなく信頼できないものともいえない。 (2)抗告人は、調査官が、監護者は母親である被抗告人が適当であるとの先入観をもって調査したのではないかと疑われるほど、被抗告人に著しく傾斜した調査がされていると主張し、その例として、被抗告人と子供たちとの面接中の態度の観察には一時間以上の時間を掛けている反面、抗告人との関係については極めて僅かの時間しか掛けていないし、その調査結果の記述も、被抗告人とのそれについては詳細に肯定的記述を多数しているのに対し、抗告人とのそれについてはたった二行であると主張する。 しかしながら、現在の未成年者らの監護状況については、抗告人の居宅等の家庭訪問を通じてその調査結果が報告されているところであり、未成年者らの監護状況として抗告人及び両親については極めて好意的な報告もされている。 これに対し、面接交渉に際しての観察は、被抗告人に対する未成年者らの行動や感情、被抗告人の接し方など監護者としての適性を見るためのものであるから、そこに抗告人との関係が記載されていないとして記述の平等性を求めることは意味がないことである。 【問題とされている部分】 (3)本件調査報告書は、夫婦間の別居に至る紛争経緯やその原因などに関する記述が多く、これに重点が置かれているように見えないではなく、子の監護の判断要素として、これほど詳細な記述が必要であるか否かについては疑問なしとしない。 しかしながら、これらの点の記述は、当事者双方の言い分を概ね対立させる形で内容及び量とも公平に記述しているところであって、原審判が判断に際し必ずしもこれに重点を置いていないことは、その理由説示から明らかであるから、とりたてて問題となることではない。 また、幼稚園関係者の未成年者らの弁当及び服装についての指摘は、調査官の調査結果と上申書とで全く異なる内容となっているが、そのいずれが正しいかはにわかには断定できない。 その他、抗告人は調査報告書中の紛争経緯の事実の記述中に顕著な誤認があると主張するが、これについても、双方の言い分の違いに収斂されるような性質のものと考えられ、調査意見と直接結びつくような事項ではない。 (4)次に、抗告人は、本件調査では、抗告人及び被抗告人の経済面の確認のほか、子の監護者の指定の基準とされる各種の重要な要素につき十分な調査がされているとは言い難いと主張する。 確かに、当事者双方経済面における調査には、抗告人の給料のほかには、金額が確定されていない。 しかしながら、被抗告人が監護者とされた場合に援助を受けるべきその両親の収入につき、資料として両親の給与所得証明を提出させ、具体的金額を挙げないまでも未成年者らを育成する上で必要な平均的収入があるとする報告をしており、格別の問題はない。 また、本件調査報告書には、未成年者の心身の状態、発達程度、教育などの環境問題などの記述に不十分と思われる点も見られる。 そして、最も問題とされるべき点は、本件調査報告告が、被抗告人と未成年者らとの交流状況の観察から、未成年者らには母性の要求か満たされておらず、これを必要としていると判断を示しているにもかかわらず、交流状況のいかなる部分からこのような判断がされたのかが必ずしも明らかでないことである。抗告人が本件調査には、母親優先の原則による思いこみがあると指摘する所以てあり、この批判に十分耐えられるだけの根拠の記述がないとの弱点は確かに認められる。本件調査は未成年者らにおいて、抗告人及び被抗告人につき内心でどのようなイメージを持っており、真に何を願望しているのかにつき踏み込んだ調査がされていないことから、結局、結論意見に説得力を欠くものとなってしまっているともいえるのである。 しかしながら、次に見るとおり、調査報告書にこのような点が認められるからといって、直ちに抗告人を監護者とすべきものとの結論に結びつくものとは考えられない。 (3)抗告人の主張(4)(子の最善の利益に関する客観的調査)について そこで、一件記録と抗告人提出の証拠から、未成年者らの最善の利益のために、抗告人と被抗告人とのいずれを監護者と指定するのが相当かを検討してみる。 まず、現状の抗告人の下での監護についてみると、未成年者らが生育してきた養育環境がそのまま保持されており、抗告人及びその両親とも親和し、通園している幼稚園の生活にも徐々に慣れ親しんできているほか、抗告人の収入やその両親の収入、持ち家の状況など経済的な側面でも何らの問題はない。また、抗告人は愛情を持って未成年者らに接し、送迎、日常生活の世話を行い、未成年者らも、被抗告人がいないことにつき努めて口にすることなく、抗告人やその両親に対しても好意を抱いて接している。将来的にも格別の問題点は予測することができない。母性の欠如の点を除き、この場合の未成年者らの最大の利益は、良好な養育環境を継続的に享受できるとの点である。 これに対し、被抗告人の下で養育される場合、上記の養育環境から離脱し、新たに川越市での生活を開始しなければならず、特にはにかみやの春子は、折角幼稚園で数少ない友人ができたのに離ればなれになるなど、新たな生活の開始に際しては抵抗を伴う面があることが予測される。この点は夏男についても同様である。被抗告人の両親の持ち家で生活することになるとした場合、両親の養育の援助が期待でき、生活の援助も受けることになるが、経済的観点のみを取り上げれば、被抗告人が無収入であるため、抗告人の下での養育よりも若干劣ることは否定できない(もっとも、この点は養育費の支払で対処することは可能である。)。しかし、幼少の二人が母親の下で日々その監護を受けることができるのはこれらの不利益を補って余りあるともいえる。 当審において提出された村瀬教授作成の意見書の結論は、「未成年者らは、抗告人及びその両親の下で、養育に必要な諸条件は瑕疵なくと言って良いくらいに日々を良好な適応状態で過ごしている。未成年者らは地域を始めとして、家庭生育環境の中でも安定し、心身共に健康である。現在の地域、学校生活に根ざした生育環境を継続することが未成年者の今後の成長にとり望ましく、必要であろうと考えられる。」というものであるが、別居中の被抗告人に対する未成年者らのイメージにつき「くまちゃんカード」の結果などを踏まえ、以下のように指摘している。「未成年者らは、母親に対し、基本的愛着感情は抱いている。しかし現在の別居状態によって、情緒が混乱するというような懸念はないと看取され、かつ考えられる。なお、付言すべきことは「くまちゃん力-ド」において、未成年者らが「おかあさん」と回数多く言及したことから「これは別居中の母親そのものを指す」と即断することは妥当ではなかろう、・・・・・・未成年者らが「おかあさん」と力-ドについて反応している場合は、そこには自分のママも含まれているであろうが、広く生活の中で享受してきた普遍的イメージ「母なるもの」、「母性的なもの」とも考えられる。未成年者らの「くまちゃんカード」への反応を自分たちの母親への強い思慕の表出と一義的に即断することは慎重を要するといえよう。」 確かに、未成年者らが被抗告人に対する具体的記憶を保持していない場合であれば、村瀬教授の上記指摘はそのとおりであろう。しかしながら、平成一四年八月の別居まで被抗告人による監護を受けてきた上、上記のテスト前の平成一五年一月から三月まで月一回の面接交渉が実現されていることをも考慮すれば、未成年者らの年齢からして被抗告人を忘れたり、被抗告人のイメージなしに母性一般を観念することが可能とは思われない。「くまちゃんカード」に対する応答を仔細に見ても、春子が「ママ」という言葉を避けたのは、別居後の抗告人やその両親に対する冷静な感情や配慮から(抗告人は、未成年者らが「ママ」の「マ」の字も言わない」と述べている。)、敢えて直接的呼称を避け、「おかあさん」という言葉を使ったものとみるのが無理のない見方であり(このことは、春子が、力ード二に対し、「おかあさん」と答えた後、「・・・・・・すぐに怒るんだよ」と具体的な被抗告人のイメージと結びつけて答えていることからも窺える。)、春子が「心細そうに」、「躊躇いつつ」、「小さな声で」、「おかあさん」という反応を示したことは、被抗告人を話題とすることが躊躇われる状況下で真意を自然に開示したものであり、この「おかあさん」とは、被抗告人そのものを指すと見る方が自然な解釈といえるのではなかろうか(このことは、夏男に関しても同様であると解される。夏男は、力ード四につき「ママ」と答え、その後小声で「おかあさん・・・・・・」とつぶやいたという反応を示している。)。 そうだとすれば、未成年者らは、村瀬教授の調査において、日常生活のさまざまな場面で被抗告人に対する愛着感情を示したものと見ることができる。 このように、その置かれた状況下において、内心では 抗告人に対する思慕の情を抱きながら、抗告人に対する愛情や配慮からそのような真意をなるべく包み隠そうとする未成年者らの心情を思えば、未成年者らにとって、下の最善の利益は、 抗告人から心身にわたる監護を受けて継続的情緒の交流を保ち、その母性に日常的に接することであると判断される(春子と夏男との極めて親密な関係を考慮すれば、未成年者両名を引き離して個々に養育することは考えられない。)。 以上によれば、抗告人と被抗告人との別居解消又は離婚に至るまで、未成年者両名の監護者を被抗告人と定めるのが相当である。 3 結語 よって、これと同旨の原審判は相当であるから(原審判の主文第1項が、別居解消又は離婚に至るまでの期間について定めるものであることは当然である。)、本件抗告を棄却することとして、主文のとおり決定する。