親権・監護権

フレンドリーペアレンツを客観的指標とする親権裁判が望まれる。

フレンドリーペアレンツを客観的指標とする親権裁判が望まれる。

1 事案の概要

妻と夫は、平成22年、夫婦関係が悪化し、妻は当時2歳のこどもを連れ出して実家に戻り別居状態になった。その後、こどもと夫とは電話・面会による交流が続いていたが、9月、夫がフジテレビの取材を受けたことを理由に妻が面会を拒絶するに至った。その後、親権争いの前哨戦ともいえる子の監護者指定引渡し・審判前の保全処分が行われたが妻が監護者指定を得た。

平成24年、妻が離婚を請求し、こどもの親権者を妻とするよう求めたが、夫は離婚原因を争い請求棄却を求める一方で、予備的に親権者を夫とするよう求めて、合わせて子の引渡し及び面会交流の附帯処分の申立てに及んだのである。

一審は、夫側の監護養育計画を高く評価し、妻の主張を杞憂と指摘し、父を親権者に指定するとともに、父への子の引渡し及び妻と子との100日の面会交流権の確保を命じる判決を言い渡した。松戸支部判決は、妻について、5年10か月の間に1年に1回しか父に合わせず、将来も暴力などが認められない中でエフピックで極めて短時間の面会を月1回できるにすぎず、かつ、海外出国の恐れがあった。他方、夫は100日の妻とこどもの面会交流を提案し、「長女が両親の愛情を受けて健全に成長することが可能」と指摘し、より子の最善の福祉に沿う父を親権者と指定した。

2 控訴審

 控訴審は、要するに、極めて多くの考慮事情を羅列したうえで「面会交流を認める意向を有しているかは、親権者を定めるにあたり、総合的に考慮すべき事情の一つ」にすぎないとその重要性を否定し、さらには、面会交流ができるだけで、「子の健全な生育や子の利益が確保されるわけではない」とまで断じて、親権者を母とする決定をした。そのうえで、100日の面会交流については非現実的との指摘もしたが、準拠法がカナダ法に基づき判断した東京高裁判決では隔週監護を命じる決定が出しており、非現実的とする論理が既に破綻している。

3 親権者の指定の基準と考慮要素

 親権者の指定の基準は議論尽くされており、改めてここで紹介する必要性を認めない。もっとも近時は面会交流の寛容性や子の監護の開始状況も考慮要素に挙げられている(二宮周平『家族法第4版』112頁)。

 本件では、監護態勢に父母間で有意な差がないことが特徴であり、このような場合、一般的に裁判所は、子の監護の安定性、母子優先の原則、子の意向に基づいて判断をすることが多いが、一審は、こどもは当時2歳だったのであり、母親に依存して生活することは不可能であることに照らすと客観的指標が必要になる。そこで、一審は子の意向に代えて、面会交流の寛容性を代替要素として取り入れるもので、全体的にみるとそこまでこれまでの判断枠組みを逸脱するものではないように思われる。特に10歳以下のこどもやこどもが監護親に逆らえないといった事情を考慮するとき、主観的要素を否定し客観的提案をする方に軍配を上げることは非訟手続では起こり得ることである。

 これに対して、東京高裁は、こどもの利益の立場からの利益考量を否定していないと指摘されるだろう。子の福祉とは父母子の利益の調和にあるのであって一審は子の利益を面会交流の寛容性、フレンドリーペアレンツルールで調和を図ったが、東京高裁は、母の利益のみで結論を決めてしまったことは明らかであり、極端かつ一方的との批判は免れないであろう。

4 寛容性―フレンドリーペアレンツルールについて

 面会交流はそもそも、非監護親の潜在化した親権に基づくという法理学的根拠と、父母双方との関係を維持するのが子の福祉に沿うという実質論がある。

 一部のフェミニストグループを除いて、面会交流の理念に反対する団体や国家はみられず、諸外国では共同親権化が進んでいる。この点、面会交流の寛容性が法理学上の根拠を持つのか、それとも子の福祉からくる実質論に過ぎないのかによって論者の見解は異なる。例えば、オーストラリア民法138条のように、子が両親双方と信頼できる結びつきを得ること、子が忠誠葛藤、自責感情に陥らないようにすることを挙げており、共同親権において権利化が進んでいる場合、単なる実質論を「卒業」しているため、より突き詰めた議論ができているように思われる。これに対して、日本では、面会交流権なる権利は存在しないという見解を前提に、フレンドリーペアレンツルールには重みがなく、親教育のための実務上のルール等という的外れな指摘もある(そもそも、最近の試行的面会交流ではこうした親教育の観点も欠落しており、臨床を知らない学者の戯言の類という外はない、小池泰「離婚時の親権者指定に際して、父母の面会交流の意向をどのように考慮すべきか」平成29年重判82頁)。

 親権者指定は非訟、つまり裁判官がする行政処分であり、また、寛容性は親権者変更事由にもなり得る(福岡家裁平成26年12月4日決定)。

 そうすると、面会交流をさせない親権者は、その適格性に疑問が生じる一方、監護態勢に有意な差がない場合は子の利益をどのような基準により判断するかが元来強く問題にされなければならないはずである。それが、子の意向、心情、フレンドリーペアレントルールであるのか、また別の隔週監護などの方法があるかなどが問われなくてはならないのである。

 上記小池は東京高裁が総合判断によっていると述べるが、実際上は、継続性の原則と母子優先の原則だけで導ける結論であることと、「こどもの観点からの利益考量をしていないこと」が最も東京高裁の批判される点といえるのである。

 一審についても、両者の監護態勢に触れており、むしろ、やや父の方が優位ではないかとの叙述も散見されるのであって、フレンドリーペアレンツルールだけで判断したものとは誤解といわざるを得ないか、論旨を正解していないといわざるを得ない。

 私が、小池を批判しなければならないのは、「子の意思」や「子の意向」を藉口して母親の福祉や利益衡量を行われている実態に楔を打ち込む必要があるという点である。

 2歳のころから、母親と一緒に暮らしている少女に、父親と暮らしたいかと問われると、調査官調査の内容もチェックされるうえ、正直なことがいえず、まさに忠誠葛藤や片親疎外という心理的機序にあるといえる。

 このような場合に、こどもの利益考量は客観的に行われるべきであり、虐待が行われていてもこどもが「いい」といっているのであれば、極論、児童相談所がやっている一時保護ですら批判の対象になるはずだ。論理は破綻している。

 一方的に切り離された非監護親が、洗脳されたこどもの意向によって全く利益調和に入れないということは、既に、アメリカ、フランス、スウェーデン、オーストラリアと、私の能力が及ぶ範囲でも完全に否定されている。

5 判批

 東京高裁は監護の安定性と母子優先の原則のみで判断している。縷々理由を説示している点は所詮枝葉の議論にすぎず、論旨には該当しない。

 そして、こどものころは、むしろ、小学校4年生くらいまでは、父母の世界の中でこどもは心理学的に生活するといわれ、監護環境の変化は重要ではないとの指摘もある。この点では、裁判官のこども自体が3年に一度、転勤を強いられているのであるから、「新たな環境は現状に比し劣悪な環境となるわけではない」との一審が正しいだろう。

 継続性の原則は、考え方によれば、子を奪取してその状態を続ければ親権を獲得できるということになる。今後は同意がない子連れ別居に対する評価も、ハーグ条約の規律も取り入れ「原状回復」を特段の事情のない限り原則として、特段の事情を審査するアプローチの方が望ましいといえる。

 名古屋家裁においても、継続性の原則については重要ではない、と判断した審判例もあり、むしろ事案の実情に応じて適切に判断する必要がある。

 東京高裁には理念がないが、一審が注目されたのは、「母による父子の関係の一方的な切断とその固定」の問題点の修復をいう点を課題ととらえ、その克服を試みたからに他ならないであろう。今後とも、東京高裁のような「理念なき判決」よりも、子の客観的利益を踏まえ、父母子の利益の調和の観点から、父母の関係を含んだ家族的ネットワークの改善を射程に入れなければ、爾後、離婚し縁は自然と薄くなるのであるから、一審のような判断が今後とも望まれる。それは、日弁連が推奨しているこどもの手続代理人制度の義務化やこどもの代理人制度の創設などが私は欠かせないものと考える

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