ブログ

国際センターに近い円頓寺の魅力にせまるあいちトリアンナーレ

なにかと政治的話題を提供している「あいちトリアンナーレ」

オリンピックのように3年に1度しか行われないイベントです。

8月いっぱいはさまざまなイベントがありますので、特に小さなお子さん向けのイベントもありますのでホームページでご確認ください。

さて、名古屋駅からもっともちかい「下町商店街」円頓寺と空襲を逃れて「名古屋らしさ」が残る伊藤家住宅などを誇る四間道。

これらはいずれも名古屋駅ヒラソル法律事務所のそば、国際センターから徒歩圏内にあります。

やや哲学的な催し物が多いような気がする今回の催し。個人的には、オーケストラによる演奏がもう少しあればと思いました。音楽的な催しも行われていますね。

円頓寺商店街では、

円頓寺商店街と円頓寺本町商店街にかかるアーケードに、特徴的な無数のロープがかかっています。このロープは、60年以上の伝統を誇る「円頓寺七夕まつり」で、住民が作った飾りを吊るすために用いられるものです。作家はこのロープの存在に着目し、今回のあいちトリエンナーレの新作として、ピンク色のロープと交換されています。

是非、名古屋駅ヒラソル法律事務所のご相談のあとにおとずれてみたり散策されたりされてもよいかもしれませんね。

表現の不自由展については、当事務所の見解を明らかにいたします。

そもそも、憲法では「芸術の自由」というものが議論されており「表現の自由」だけでは賄いきれない問題があります。例えばピカソなど現代芸術より私は1900年代の印象派の絵画を美しく思います。しかし、どのような芸術が大衆に人気があるかなどは時代により左右され、ゴッホやゴーギャンも生前は正当に評価されずその生涯を閉じています。

またベートーベンがどうして美しい交響曲を9つも残すことができたかといえば、名士に保護されていたからという点が大きいでしょう。この点はモーツァルトが楽曲を切り売りして生活をしていたのと異なるといえます。しかしそんなモーツァルトも名士が楽曲を購入してくれたからこそ生活ができたのです。

では、「表現の不自由展」で問題となったものが、モネやピカソに値するものといえるのか。

それはそれぞれの受け手の感受性に委ねられていると考えられるでしょう。

宗教画などはそれをみると不快に思う人も中にはいるのです。それは教会が国家と同様の力を持ち人々の不安を煽っていた側面が否定できないからです。しかしだからといって宗教画をかざっていない美術館も少ないといえるでしょう。

芸術の自由は、表現の自由のように公権力から検閲されない自由だけではなく、現代では公権力にその力=補助金をもらって芸術を支援してもらう社会権的側面があるといわれています。つまり昔は地元の名士が応援していからこそ過去の芸術家や音楽家は生活ができましたが、現在はそれは一部の大企業のみに委ねられています。一例を挙げるとこうしたメセナに熱心なのは東急グループやサントリーホールを擁するサントリーが挙げられるでしょう。

ここに国家も補助金を出して芸術を支援すべきではないのかという問題意識があります。その際公権力が支援するのは芸術そのものであり芸術の中身にまで立ち入るものではないかと思います。

そういう意味では、芸術の自由の観点からは、主催者の一部に愛知県知事がおりその思想信条や感受性に合わない芸術表現であってもその内容に着目してその芸術は支援するとか、この芸術は支援しないということをやると、かっての地元の名士や権力者たちの肖像画ばかりになってしまうでしょう。

一部で補助金の見直しを示唆する官房長官がいましたがこれがまさに表現内容に着目する芸術の自由の侵害といえるのではないでしょうか。今後、自由権的側面だけではなく官房長官が補助金の見直しを示唆した社会権的自由の側面も多いに討議して欲しいと思います。この点は過去の最高裁判決で「天皇コラージュ事件」があり議論の参考になるでしょう。

ただ、申し述べたいことは、東京にいくと様々な美術館がありますが、一例を挙げると三菱一号館美術館、新宿の損保ジャパン美術館、名古屋にも山崎マザック美術館がありますが、これらはまさに地元の名士たちによる芸術の保護といってもいいでしょう。しかし芸術は本来市民たちのためのものですので、地元の名士や公権力のものと考えるのはおかしいでしょう。そういう意味では税金による芸術の助成を考えることに一石を投じることになるでしょう。

次に、名古屋市長と大阪府知事の意見ですが、愛知県知事に「あわれ」とまで一刀両断されてしまいましたが、特に後者は弁護士でありながら表現の自由の枠組みからも逸脱しており不快であれば表現を公権力が規制できるという考え方はそもそも表現の自由それ自体を全く理解しておらず極めて残念な意見表明でした。また、名古屋市長の考え方は愛知県芸術文化センターや名古屋市美術館など公の施設も利用するから表現が制限され民間の美術館で行えば良いという意見のようです。(しかし、トリアンナーレの会場は円頓寺商店街もあり、行政の施設ばかりではありませんし、本来行政の施設は市民のものであり公の施設だから制約があるという議論には異論もあるでしょう。)

しかし、表現の自由と芸術の自由の質的違いを理解していません。また、一度愛知県知事がゴーサインを出した以上、展示の中止は抽象的権利ではなく既に具体的権利となっているわけです。事前抑制になるといわざるを得ません。北方ジャーナル事件のように名誉権が侵害されるわけでもプライバシー権が侵害されるわけでもないのに多数派の心情のために芸術の展示が中止されるのは危険なことです。

現在はソフィア王立美術館に展示されているピカソの「ゲルニカ」もスペイン内戦を批判したものです。その政治性は明らかといえるでしょう。亡くなったこどもをデフォルメしている女性を描いた作品群の前には多くの人が共感し展示室に立ち尽くし涙を流していました。それにより戦争はしないという誓いを新たにしてくれるのであれば、政治性があっても展示すべきものであるから王立美術館に常設されているのでしょう。ピカソの絵が高額だから展示されているのではありません。

その意味では、あいちトリアンナーレの事件は、芸術の不自由を体現してしまったといえるでしょう。芸術の自由には対抗言論が成り立ちにくいので思想の自由市場論になじみにくいものがある分、自由権は保護されなけらばならないですし、これはテレビ放送中に番組を中断させるようなものです。せめて展示期間を終えてから様々な批評にさらされるべきではなかったのかと思います。

たしかに表現の自由に名を借りた政治的表現だ、という意見もあり傾聴に値するでしょう。しかしスペイン内戦から時間が経過し具体的利害関係が消滅したからこそピカソの絵は感動を与えることになったのでしょうか。政治性は芸術に伴い、特に欧米の芸術の価値観は反権力であることが多いといえます。一部報道機関が吉本興業の政権への接近を遺憾に思うのは芸は権力と適度に距離を置かなければならないとの前提があるからでしょう。

予定調和からは美しい言論も芸術もうまれません。表現の不自由展というのは世界の美術館で展示を拒否されたものを集めるというエッジの聴いた趣向は良かったでしょう。これらの収集の協力も行政の協力がないとできないことではないかと思います。しかし今回は収集の仕方に偏りがあったような憾みがあります。

しかし、泉佐野事件最高裁判決のように、明らかに差し迫った具体的な危険がない限り展示を中止するという判断は間違いでした。表現内容の妥当性は展示を終えてからの批評に委ねられるのです。今回は一方的な中止となり片方の意見が優勢となりましたが芸術は、そのテーマや芸術性により語られるべきで多数決で決める内容ではありません。

その意味で愛知県知事の判断はおそらくその思想信条に合わないものの表現の自由の観点から中止に消極的であったことは評価できますが、彼のなすべきことは警察の応援を得て芸術を妨害する人たちから芸術を守ることであったのであり、展示を中止し事前抑制をすることではなかったといえるでしょう。

その意味で名古屋市長の言論は論外であるとはいえ、また愛知県知事の判断も間違いであり、展示を再開したうえで、事後的に評価やそのような企画を展示した政治的責任が生じるのであればそれは彼が引き受けるものだといえるでしょう。また、アメリカの報道機関が展示作品を引き揚げたことなども抗議の意思を示すものとして妥当なものでしょう。加えて今回日本で批判されたものを芸術の都のバルセロナで展示しようという動きも出ているようです。この不寛容さが愛知県や名古屋市に芸術は根付かない、教養がないといわれかねないものだ、と憂慮します。

とはいうものの、台風が到来したお盆の中、残り少ない夏休みで芸術により、名古屋市民のみなさんの心が癒され明るくなることが何よりの願いといえるでしょう。

2019年8月15日 文責 服部勇人