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ジュリアン―離婚後のフランス映画と面会交流

 ジュリアンをみた。ジュリアンは、フランスの短編映画でキャストをそのままに離婚をテーマに2017年、フランスで公開された映画だ。ジュリアンは、主にフランス語圏の男の子の名前で、青春といった意味がある。

 甥っ子のシュシュはいくつかの名誉ある賞を受賞したこの映画に関心を持ったらしく、この映画を見に行きたいといっていた。ただ、シュシュ自体も、面会を断っているこどもだ。法の予定する理想ではなく問題提起を含むものは過激な描写になりやすい。

 ジュリアンというタイトルがついているが、11歳の可愛らしい少年のメイキング映像とは裏腹に、その内容はジュリアンというより、離婚した母ミリアムやフランスの離婚後の群像を描いているといったところだろうか。その内容は終始、危機迫るものであった。個人的にはフランス映画らしいといってはどうかと思うが、少年の揺れる心理みたいなものを丁寧に描いてほしかったという希望があったが、どうしてか離婚ないし暴力を伴い、ジュリアンは最後までおびえているだけというホラー映画になってしまったようだ。

 この映画は法曹関係者の関心が高く、見に行くと法曹関係者にあったりする。僕が名古屋でこの作品をみたときもそうだった。

 この映画の主題は、やはり共同親権の弊害といったところだろうか。共同親権に関する子の返還申立て事件での公開判例も増えており、近時も、シンガポール法で共同親権とされたが、母が子を日本に転居させることを認めた事例で監護の侵害がない、とされた大阪高裁平成28年7月7日、トルコへの返還を命じた原決定を取消し返還拒否事由を認めた大阪高裁平成27年7月14日などがある。

 さて、場面は調停でのシーンからスタートする。海外では共同親権か、単独親権のうえ面会交流かを選択することができることが多い。物語は、父アントワーヌと母ミリアムがジュリアンにつき共同親権を持つことになることから始まる。しかし、個人的には共同親権という裁定自体がどうだったのだろうという見解を持った。たしかに映画をみていて、ジュリアンの男性性の取得からは父親は必要だと思う。それだけ離婚後はジュリアンは女性ばかりに囲まれてしまうわけだ。だが、私には、父アントワーヌがジュリアンを愛しているようには思えなかった。むしろ面会交流を口実に、母ミリアムとの復縁を迫っているのだと確信できた。しかし、日本よりも離婚率が高く、再婚が多いフランスで「復縁」というのは少し無理がある、と思った。それだけ父アントワーヌの認知はゆがみきっていて共同親権者には社会通念上ふさわしくないことは結末で明らかになるのである。

 ジュリアンをみていると、悪い面会交流の典型をみているようである。スケジュールの調整は母ミリアムはジュリアンにやらせようとするが、ジュリアンは気丈にもできるだけ両者の顔を立てるように行動しようと努めていた。自動車の中で父から母の携帯電話の番号を教えられるように迫られるケースでは、演技指導では涙を流す予定はなかったという。しかし、ジュリアンを演じたトーマスからは涙が流れたという。その撮影の前日、トーマスは寝られなかったと明かす。

 この映画を通じて2つ指摘することがある。それは、フランス文化とそれに乗れない人たちの違いだろうか。母は身を隠すように家を出るわけであるが、フランスとパーティ―文化は切っても切れない縁だ。そういう機会が新たなカップリングにも結び付くし、ジュリアンが最高の笑顔を見せたのもパーティ―でのシーンだった。他方、そうしたコミュニティから切り離された父のような人物は偏狭な思考に陥りやすい。感覚的な物言いで申し訳ないがフランス人は思い詰めると徹底的に思い詰めてしまう人がいる。父はそういう存在だったような気がするのだ。

 もう一つは、父方祖父母の存在で面会が和やかになっているということだ。正直、ジュリアンの父は問題人物であるが、父方祖父母とジュリアンが一緒にいるとき、ジュリアンの情緒は多少なりとも安定性があったように思う。狩猟が趣味という祖父はジュリアンにいい刺激になるおじいちゃんだと思う。もちろん実際は、A家対B家の争いになってしまい祖父母に会わせたくないという人もいるが、日本ではパーティ―文化はないし複雑な人間関係を学ぶのはまずは親戚づきあいが良いような気がする。

 なお、本件をDV映画とみる向きもあるだろう。しかし、個人的見解では、離婚後もここまで高葛藤な事例はあまり経験しない。むしろストーカー映画という感じだろうか。離婚訴訟中の面会交流などにこういうことはあるかもしれないが、この作品は離婚後が描かれ、果たしてどれほどのフランス人が復縁を望むのだろうと考えてしまった。また、父を一方的に悪者にする向きもあるだろう。結末を思えば当然である。しかし、父はもっと面会交流を楽しくするための努力をすべきだった。そのためには彼は孤独すぎたのかもしれない。フランス的個人主義の一つの問題の顕在化といえるかもしれない。そうであるから、自動車で無言でドライブして尋問を受けるジュリアンを気の毒に思った。

 他方、母の側も、特に面会につきジュリアンの体調が悪いと虚偽を述べたり、その調整を11歳の少年に押し付けるなどの行動があった。少なくとも共同親権はともかくフランスでは面会交流は権利であり、その不履行には刑事罰もある。隠れるから追いかけるという悪循環もあるし中間的な受渡し場所を決めれば良いのに、というように思ってしまった。

 しかし、いずれにしても、面会交流を復縁に利用するのは権利の濫用であり、女性の人格を否定するものであり、また多くの理性的男性の尊厳を傷つけるものであろう。復縁を迫る際、無理やり抱きしめるなどの顔の演技がまた鬼気迫るものがあった。この映画は感情が重要であるが、誰に感情移入するかはそれぞれだろう。読了感は最悪であるが、サッカーや冗談が大好きな13歳のトーマスの等身大の演技も感じられる。メーキングの「仲良し父子」動画などをみるとその落差も楽しみに変えられるのではないか。