調査官調査の可視化論を中心に―可児康則弁護士の論考に対する考察

愛知県弁護士会でもと同僚の可児康則弁護士が「面会交流をめぐる家裁実務の問題点」-調査官調査の可視化を中心に―を公表した。 論旨は、調査官調査は「結論ありき」で調査過程を争うこともできず「可視化」が必要と論じている。 昔、刑事訴訟法学者を志したことがある私からすれば、どこかで聴いたような議論がある。 たしかに、調査官調査は異常なまでの検証性のなさは刑事法以下といえるかもしれない。例えばオーストラリアでは、五月雨式の取調べを防止するため、論点を整理する取調べの準備手続を行ってから取調べを行っている。また、韓国などでも取調べの内容は録画され事後的検証可能性を残すものになった。そして日本でも裁判員対象事件だけは、一部取調べの可視化は不十分ながら行われて検証可能性が一部ではあるものの残されている。そして、法務省ですら刑事取調べの可視化の問題については積極的だが、検察当局が反対の論陣を張っているという状況にある。 ところで、調査官調査が可視化が必要という可児の論旨は、いかなる問題提起を含むもので、結論は相当性を有するのだろうか。 可児は面会交流実施説が主流になっているとの事実認識に基づき、調査官意見がそのまま裁判所の判断になっているとの問題提起を指摘し、おそらくはあくまでもジャッジメントをするのは裁判所であって、それに実質的有益な反論ができるよう、可視化の必要性を訴えるものと理解できる。 可児の論旨は、要するに調査官意見が、実務において尊重されずそのままの審判にならないことはない、という事実認識をしている。たしかに、ある調査官が書いた論考にも、審判で調査官調査が尊重されない例などはなく、調査官調査に対する有効な反論はできないはずだ、と誇らしげな論考に接することがある。しかし、調査官は20分、こどもと面談して「家庭におけるこどもの心情の断面」をみるにすぎないが、まるですべてを見てきたような万能感や調査官調査に反論はできないという論考には違和感を抱かざるを得ない。 可児は調査官はこどもの得意な弁護士として紹介されるが、そうだろうか。昔は婚姻費用や養育費に調査官調査が入ることが多かったし、こどもの問題に特化したのはここ数年のことではないかと思われる。しかも、家裁調査官は、少年事件においては鑑別所の鑑別技官という心理学・精神医学の得意な弁護士の意見をみて意見を述べていることが多く、とても自己で心理学や精神医学の分析をすることができるだけの能力が備わっているとは考えられない。たとえば私が少年事件を担当したときは鑑別技官の報告書を読み込んで調査官意見書が出る前に当付添い人の意見書を提出していたが、調査官とはケースワークのありかたについて調整の分担をする程度にとどまっていた。すなわち、少年事件では、調査官は、こどもの問題の得意な弁護士ではないのに対して、家事事件では突如、得意な弁護士になるというのも、おかしな話だ、と考えたことがある。 つまり鑑別所との対比では少年を鑑別所にいれてテストをしたり面談をしたりして、あらゆる角度から内面に迫る鑑別技官と、2回合計2時間の調査官調査で結論を決める調査官とでは、「深度」が全く異なるのである。しかし少年事件の場合はいまだ2時間程度向かい合う分良い。しかし家事事件の場合、こどもとの面談時間は20分程度であり、それですべてをみてきたように語り、鑑別技官のような深度のある意見として過大に尊重することは明らかにおかしい。 しかし、可児は調査官報告書を論難するのは難しいと論じる。調査官報告書では、「こどもは非監護親との面会に拒否的であったが、通常小学生は同居親の意向を汲んだ発言をしやすく、未成年者の意向は真意と解することはできない」などと記載されても、これを論難するのは至難の業という。たしかに、東京高裁の判例で、臨床心理士の学者と調査官報告書が真っ向から対立するとき、高裁は調査官報告書に軍配を上げた。しかし、その理由は臨床心理士の学者はこどもと面会していないからであるからという。逆にいうと面会させたうえでの意見は一定の尊重があるだろうと思われる。しかしながら、調査官報告書は、オピニオンを構成するすべてが報告書に記載されているわけではない。身体、表情、顔色、見える範囲にある傷等のこどもの外形的な状態、こどもの内面にかかわる事項、保育園、学校から得られるものから総合するが、可児によると「罪悪感の程度に関する分析を適切に行うためには、調査時における未成年者のわずかな表情等の変化やその場の雰囲気を把握する必要がある」として意見書は机上の空論にすぎない、とされたの述べる。しかし、調査官調査は20分程度であるのであって、本当にそんな神様みたいなことができるのか、可児の抗告審を担当した裁判官の判断は極めて疑問である。こどものわずかな表情等の変化、その場の雰囲気を把握することができるのは、その場にいた調査官だけであり録画もされていないし、音声もなされていない。可児は結果的に、裁判官でも調査官の結論に口を挟めない論旨を述べて、厳しい結論を下す。 そこで可児は調査官調査は可視化をする必要があると論じる。つまり、一般通常人の感覚でいえば20分で表情から真意を見抜いたといっても誰も納得しないだろうし、心理学者すら納得しないだろう。弁護士も、リーガルカウンセラーなわけであるが、真意を理解するには時間が必要である。こどもとの面談は、家事事件や少年事件で経験するが集中力も考慮して1時間程度を行うが、中には3日にわたって人身保護の国選調査にあたった代理人もいた。それとの対比で果たして20分の調査官、しかも20代前半の女性で社会性の乏しい公務員で本当にそんなことできるのか、との疑問はついてまわるであろう。可児は反駁をあきらめ、可視化論を訴える。 しかし、可視化論を訴えなければならない状態に来ていることを家裁調査官はあがめるべきだ。保全についての法的判断にまで意見をつけたり、抗議に赴いた当事者に村上恵子名古屋家裁調査官は、「調査は間違いでした。でも高裁があるから高裁で争えば」と述べたというが、こういう傲慢な態度は、かつての警察・検察と対峙したいつかの歴史を思い出すようだ。現在、検察庁は、「1審は間違いでした。でも高裁で争えば」などというのであろうか。検事総長による非常上告事件などをみるとその矜持のほどがうかがえる。取調べも検事自らが行うが、裁判官も立ち会えない調査というのはどうなのだろうか。 ある裁判所では、裁判官による調停中に、調査官が腕組みをして不遜な態度をとっていたが、何か勘違いをしているのではなかろうか。たしかに以前は警察の方が検察なんかよりもえらいというような風潮の時期もあったが、人間としての礼儀の問題と思われる。 可児は、現状の調査官調査は「結論ありき」でなされたと疑われてもその疑念は払拭できないと冷静な彼にしては、激しく家庭裁判所の手続を論難しているように思われる。そして、その後に児童得意な弁護士の関与などを指摘している。たしかに、児童精神科医に委嘱したり、比較的フリーランスが多い臨床心理士に3時間程度の時間をとらせて、調査を委嘱するということはあってしかるべきであると可児は指摘する。これは保護観察所ではもう行われていることである。こどもの意向や心情を適切に把握し、審判に反映させるために外部の得意な弁護士、専門機関の力を借りるべきで、そのためには調査の可視化が必要である。 可児は、調査案調査の可視化は、調査官の意見のみで結論が決まってしまっている現在の実務に大きな変化をもたらして、信頼回復につながると指摘している。逆に言えば信頼は毀損されているというのが彼の判断なのであろう。すべては子の最善の利益のために、という観点からすれば、継続的な面会交流は発達に良い影響を与え、精神的安定につながるというのが一般論である。可児は、立場性もあるのであろうが、画一的な解決に修正が必要というが、ある程度の見通しの可能性が立つということを確保するという意味では可児のかかる意見には賛成できない。そして家裁の本来の役割は司法ケースワークであり、旧家事審判法には、個人の尊厳と両性の本質的平等を基本として、家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ることを目的とされていた。かかる原点は、法改正がなされても忘れ去られるようにならなでいて欲しいと考えられる。 しかしながら、可児の可視化論は、私としては、結果的に当事者立会を認める、録音・録画をするという刑訴法的手法を導入するしかないであろう。しかし、アメリカでは、被疑者は弁護人の立会の下で取り調べが受けられるのが当たり前なのに、日本では5歳や7歳のこどもに誰も立ち会いをさせず公権力が調査なるものをするという疑問はないのであろうか。私はむしろ、手続行為能力を問題にせず客観的利益を守るためのこどもの手続代理人制度を導入するべきであると考える。意向が尊重されるようになる10歳以上にこどもの手続代理人を就けても画餅に帰する。私は、6歳のこどもにこどもの手続代理人の選任をつけようとしたが却下して、審判は「密室」で決められようとしている。 結果的に家裁は評判を落とし、今般の弁護士会の裁判官評価では、ある意味可児に言わせれば当然なのか、全員が2評価であった。5段階で2とは相当の評価であり、特に2名の裁判官が低評価であった。それは調査官調査を悪用しているとも受け取られたからであろう。調査官調査の使い方や子の福祉を考えているか、という裁判官評価が2というのは、相当の重症のように思えてならないものだ。 すべてを子の最善の利益のためにという観点からいうと司法ケースワークをとりいれある意味では可児の主張する可視化を取り入れるのだが、それは調査官調査を録音・録画するとか、立会を認めるといった陳腐な問題ではなく、本来的には人間関係の調整を目的とした家裁の原点に戻るべきともいえる。可児が縷々論難する面会交流原則実施説についても単に詳細な実施要領を定めれば万事うまくいくわけではない。可児は「裁判官の判断によって解決するという通常の民事事件と同様のスタイルに戻すべき」というが、ならば人訴は地方裁判所に管轄を移すべきである。そもそも司法裁断的な作用では人間関係の調整ができないからケースワーク的機能を期待して、本来調査官が配置されたはずである。可児の結論は理想が低い。むしろ、裁判官が中心にというのは当然としても、ケースワーク的機能と和解的機能の充実こそが、本来のスタイルである。いずれにしても、個別具体的に当該「その子」の実情を踏まえて面会交流の可否や内容を決定すること、それこそが真に「こどもの健全な成長」を促すという論旨であるが、可児はディダクションんばかりを考えるが、それはアディッションも考えられるべきものと考える。それが健全な家庭を取り戻す方法論だ、と考える。

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