DV

フレンドリーペアレントルールは子を害する(可児康則)を批評する。

 フレンドリーペアレントルールとは、友好的に非監護親との面会交流を認める親を監護親として適格であると判断する基準である。
 アメリカでは共同親権が一般的であり、共同親権でない州は、主たる養育者を定めたうえで100日程度の面会交流を定めることになるのである。したがって、アメリカの離婚法制それ自体がフレンドリーペアレントルールを存立の基盤としているのであり、この限度で可児の「アメリカでは裁判実務にある程度浸透しているともいわれる」という評価は過小評価である。

 翻って日本は共同親権ではないことに照らして、単独親権者を定めることになることから、面会交流権を確保するためには、監護親は原則としてフレンドリーペアレントであることが求められる。ただし、面会交流には、積極層、中間層、消極層がいるので、積極的なフレンドリーペアレントはアメリカでは共同親権を選択するので問題になることはない。他方、子の最善の利益からは残念であるが消極層がいることは、間違いないところである。したがって、積極層は協議離婚でも面会交流の取り決めができるフレンドリーペアレントであり、臨床でも公正証書で面会交流の取り決めを定めることで済ませていることも多い。問題になるのは、中間層へのアプローチだが、非監護親もこどもに対しては、様々な想いをもっているのであって、必ずしもすべてが子の最善の利益にかなうものばかりではないことは消極層がいることからももちろんである。

 問題提起としては、フレンドリーペアレントルールを親権者指定や監護者指定にあたって、特別な積極的要素として考慮するべきか否かである。

 この点、可児弁護士は、「弁護士として、日々、離婚紛争でのこどもをめぐる激しい対立の渦中に身を置く立場」というのだが、中間層をそもそもそのように断じること自体、可児弁護士の現状認識が間違っていることを如実に示すものといえる。

 可児は、協議離婚制度があるから裁判所に持ち込まれる事件は困難事件が多いと主張する。しかし、絶縁を誓ったような人たちの間でもまた協議離婚は成立するのであって、また、協議離婚はこどもがいなかったり、さしたる財産がない場合は、スムースに成立するという点を見落としている。したがって、こどもがいて、将来の養育や資産が多く財産分与などを求めたい場合、葛藤が高くなくても裁判所の調停に持ち込まれることも多い。ゆえに、裁判所に持ち込まれる案件は、中間的なものだ、という現状認識の改めを求めていかなくてはならないと思われる。例えば、インターネット上に可児弁護士が代理人を務めた案件で、肛門をさわったか否かを争点化し、可児弁護士の主張が原判事に虚偽と認定されて面会交流が認められた事案があるが、中間的な事案につき葛藤を高めているのは、いったい誰なのだろうか。

 可児の議論が循環論法になっているのは、フレンドリーペアレントルールは子を害すると主張しながら、協議離婚は葛藤が低いことを前提に、ならばフレンドリーペアレントルールは有意義な解釈指針になるではないか。氏の論理は破綻していると云わざるを得ない。

 ところが、可児は、子の最善の福祉から導かれるフレンドリーペアレントルールについて、「当事者間で協議可能な多くの夫婦には関係がない」と指摘するが、そもそも協議可能な夫婦はフレンドリーペアレントが多いから論理破綻していることを隠匿しようとしていることの証左というほかはない。

 その後、可児はフレンドリーペアレントルールの弊害を論証しだすのだが、偽装科学を持ち出す。要するに、面会交流はこどもの脳に悪い影響を及ぼすというものなそうだが、通常は、両親から愛情をたっぷり受けた方が、脳科学の発達にも良い影響を与えるというのが確立された社会通念というべきである。したがって、偽装科学を根拠とした論旨は採用し難いし、採用した裁判例もゼロである。また、諸外国の立法事実とも矛盾し、全体的に虚偽性が浮かび上がりかねない状況については弁明が必要である、と解される。

 可児は、フレンドリーペアレントルールが、監護親によるDV、虐待の主張を抑制し、封殺する結果をもたらすというが、将来のこどもの成長を意識すべきだ、という安倍元横浜家裁所長の論文をみると、未来志向での議論ができないものか、と思う。別居した場合、DVはほとんどなくなるともいわれており、特に可児も知るSIVという分類はゼロになると云ってもよい。

 可児はDV、DVと主張するのだが、その定義が「身体的暴力」でかつ「診断書で証明できるもの」となるのはご存知なのであろうか。
 中間的な事案で、フレンドリーペアレントルールの適用を除外するほどの苛烈なDV案件はないと云わざるを得ない。

 可児も認めるように、可児は「DVや虐待については、証拠は存在しない」と述べているが、ある種の開き直りという外ないように思われる。可児は、DVの主張に対して「虚偽」「でっちあげ」と主張するが、自らも児童虐待をでっちあげと認定されており、そもそも、かような批判資格をお持ちかが問題となり得る。

 公平な裁判所は、暴力の危険性を、施設系弁護士のように過大評価をするべきではなく、親子関係を制限すれば愛着が得られなくなり、子の健全な発達を損ね、子の最善の利益を害すると指摘しており、可児の論考と真っ向から対立する。

 そもそも施設系弁護士は不貞行為をした女性からの依頼を受けてDVをでっちあげた弁護士もおり「性奴隷」「慰安婦にされた」と主張した弁護士がいた。そもそも可児のいうフレンドリーペアレントルールに対する懸念は、消極層との面会交流でトラブルが起きないかということであり、中間層と消極層を混ぜて混在一体に議論するのは明白な誤謬がある。

 可児弁護士は、オーストラリアでのリセッションをとりあげている。しかし、オーストラリアのリセッションは、積極層、中間層、消極層をふるい分けずに原則共同親権やフレンドリーペアレントルールに走った点に問題がある。

 しかしながら、ほとんどの男性は配偶者暴力の法律要件に該当しない男性ばかりである。この点で、可児の「フレンドリーペアレントルールは、DV、虐待に関する主張を封殺する」という激しい思い込みに基づく主張には、甚だ遺憾というほかはない。フレンドリーペアレントルールは、父母双方から愛着を受けられるところに至高の目的があるのであり、可児が縷々主張するDV、虐待の事実がなかったことになるとする根拠も全くない。可児は、名古屋家裁2係で、児童虐待をでっちあげようとしたが、外部の中立性のない臨床心理士の類に、父親に虐待をされた、と幼児にいわせること自体がこどもを紛争に巻き込む虐待行為であるといわざるをえまい。

 通常は、こどもは父母双方との面会を望むものであり、子の最善の利益は母親の最善の利益とは一致しない。可児弁護士
の133頁以下の叙述は「うがった」見方としかいいようがなくコメントのしようがない。男性に対する恨みと性悪性で満ち溢れているといわざるをえまい。

 可児はフレンドリーペアレントルールがこどもの貧困にもつながると主張する。しかし、頻繁な面会交流こそこどもとの愛着を維持し、養育費や学費の支払いの確保ができるというものであり、まったく人間心理を無視した偏頗かつ一方的な考え方と断じるほかはない。

 そもそも中間的な葛藤状態において、可児のいう「フレンドリーペアレントルールは、両親間の対立状態を永続化させ、こどもを不安定にさせる」という点も、そもそも中間的な葛藤状態の臨床の少なさが物語る。配偶者暴力センターの事件ばかりではなく、社会常識に沿った離婚事件も経験すれば可児康則弁護士のフレンドリーペアレント批判が誤謬あるものであることは明らかである。

 可児の論旨は、母子優先の原則で判断するべきで、面会交流実施説も我慢できないのに、親権者や監護者の指定にフレンドリーペアレントルールを入れるということ、つまり離婚訴訟の判断材料になり、施設系弁護士として男性を一方的な悪者に仕立て上げられないことになって困ったという論旨にすぎない。可児は、フレンドリーペアレントルールは「こどもを害する」と一方的に決めつけているが、それは弁護士及び法律家としての思考の放棄として、可児康則という法律家の自己否定に他ならないと思料される。

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